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Episode 526 忠誠心が曲者です。

春ですね。
去年は中止になったセンバツ、今年は2年ぶりに熱戦が繰り広げられています。
「春はセンバツから」なんて言葉があるほど、日本中でこの一大イベントを心待ちにしている方がいらっしゃるのです。
そういう私もそのひとり…なのです。
日本で最も人気があるスポーツ…最近はサッカーにその座を奪われることもあるようですが、なんだかんだと言って野球が好きな人は多いのだと思います。

ところで、私は学生時代に応援団員だったということは、過去の記事の中で何度となく話題にしているのです
野球と応援団の関係性はかなり強くて、応援団の応援パタンは基本的に「野球のために作られた」と言っても過言ではないほど。
チームが攻撃を始めるにあたって、先ず応援歌でチームの背中を押し、コンバットマーチの類で流れを作るのが基本…相手の攻撃時にブーイングをするなどの「相手の邪魔になる行為」はご法度で、応援する以上に無礼がないことが求められるのです。
だから攻守が目紛しく入れ替わるサッカーとかね、応援が…やりにくかったりします。

そんな体育会系の組織の中でも飛び抜けて規律を重んじる、ここ最近の記事で問題を指摘している「軍隊式教育」の思想を地で行く組織に、私はどっぷり浸かっていたのです。
これは、「軍隊的なトップダウン型組織」とASDの組み合わせで、高い親和性を示すグループが存在することを意味します。
つまり、日本的な学校教育で発見されにくいASDが存在する…ということです。

その親和性が高い部分については過去記事をご覧いただくとして…。
学校教育で発見できないASDのグループは、ひと言で言えば学力レベルの高いASDです。
これは前回の記事で指摘した「横並び一列」で、落ちこぼれないということを意味します。

えっと…あ、応援団の話でしたね、脱線してしまいました。
応援団の基本理念をひと言で表すならば「愛校心」です。
誇りを持って母校を応援する、その母校に誇りを持てるか…というのは、学校に対する社会的評価が大きく関係していることを否定することはできません。
学力であれ、スポーツであれ、「あぁ…あの学校、すごい!」の評価があればこそ、自信を持って母校の名前を呼ぶことができるでしょう。
センバツに出場できるくらいの強豪…とかね、恥ずかしくない実績が名前に箔をつけるのです。
ところで…本来、「応援する」という行為は、あなたの努力に対して私が「背中を押す」ということで、その社会的評価は関係ないハズなのですが…。

先日、なん(@nankuru28)さんがTwitterに投稿していたこのツイートに、日本的な同調圧力が強い社会構造を感じます。
このツイートは、

と、続きます。

明治維新後、日本が独立した主権を保つために導入されたものが強権的な「軍隊式教育」であったと私は思っています。
外患に対抗するために内憂を潰し、少なくとも国内を「一枚岩」にする必要があった、それは以前に指摘した通りです。
つまり「軍隊式教育」の真髄は、自分自身が所属する組織への愛…つまり忠誠心ということですよね。

小学校の運動会での「紅白対抗戦」から延々と、理由なく自組織への「無償の愛」を教え続ければ、それが標準にもなるでしょうとも。
それは今現在も脈々と受け継がれている…高校野球然り、紅白歌合戦然り、オリンピックの「がんばれニッポン」キャンペーン然り。

応援団に所属して組織愛を体現してきた私は、ASDという先天的な障害を持ちながら、組織の異端として識別されなかったのです。
これが意味するところは、少なくとも私が受けてきた教育は、意識するかしないかは別として、「自ら考え行動する」ではなく、「組織への忠誠に基づいた社会の中の個人の形成」だったということ。
もちろん、50歳になる私の話ですからね、時代は移り変わっているので、今はこの限りではないと、思いたい…でも。

TV中継でセンバツのアルプス席を見て、学校や地域の期待を背負ってプレーする高校生の姿に、変わらない日本を感じてしまうのです。

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