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Episode 447 歩き方を覚えるのです。

さてさて、先日記事にさせていただいたまめさんの「スタートラインに立つ。」には、続きの話があるのです。

ASD当事者とその家族にとって、ASDの「自覚」はスタートラインであることは間違いないのです。
ただ、スタートラインに立ったからと言って、全てが動き出すとは限らない…と、この話の中でまめさんは語るのです。


それはつまり…歩き出す/走り出すためには「歩き方/走り方を覚える」という当たり前のことが必要なのだと言うこと。
「自覚すること」が「歩き始める/走り始めること」とイコールで結びつかない…「そんなバカな!」と思うかも知れませんが、かけっこができるのは「走り方を身体で覚えているから」こそ可能なのです。
スタートラインに立てば、そこから先に進む努力をするように感じるものです。
でもそれは、「歩く/走る」というゴールを目指すための基本的な動作を知っていることが大前提なのです。
ASDの自覚の後に立ちはだかる「ふたつ目の壁」は、実は「歩き方/走り方を覚える」…という、ビックリするくらい基本的なことなのです。
ところがね、これが恐ろしい程になかなか理解できないのですよ。

定型側の記述はASDである私には難しいので、まめさんの記事を読んでいただくとして、対面のASDができることは…実は定型ほど難しくありません。

ベルギーの詩人・モーリス・メーテルリンクの童話「青い鳥」は、読んだことが無くても内容を知らない人はあまりいないでしょう。
2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語…(Wikipedia より)。
「幸せ」は自分の手が届くところにあって、地に足を付けてしっかりと身近なところを見てごらん…というお話です。

先日のコラム記事で、網に掛かった白鳥が網を外すには…という話をしました
網は暴れるほどに食い込み絡みつくのです。
網を外すには暴れずに、丁寧に食い込んで絡んで場所を解いて行くしかない…と。

できないを認める。
今まで「出来ることになっていた出来ない」を認めて、教えてもらう。
ASDにできる「歩き方の訓練」は、たったこれだけです。

「出来てないね」の指摘に対して、「そんなことはない」とか思いながら「イライラ」「プンプン」していたのでしょうね。
それを「そうだね、出来てないね」と受け入れる…それだけです。
これがまめさんの言う「恐怖心」の正体だと私は思うのです。
そして「認める/受け入れる」の恐怖心は相当だというのも間違いないのです。
それはつまり、自分が今まで「出来ている」と思う拠りどころであった「理論(≒ブラックボックス)」を捨てるということを意味しているワケです。

基本的で簡単であるからこそ、染み付いた感覚を拭いきれない…。
それ故に対外的社会生活には今まで通り「外モード」というマジックを活用しつつ、可能な限り「できない」を認めるということになるワケです。

更に言ってしまえば、「出来ていない」を認めるということが「出来るようになる」を意味しません。
できないままのモノも当然あって、悲しいかなそれも受け入れなければならなくなるワケです。

お互いの違いを把握しつつ、常に歩み寄りの気持ちさえ忘れなければ『”ASDという障壁込み”で私たちだ』と言えるのではないかと思う。

「出来なくてOK」をお互いに認めること。
スタートラインに立った「定型×ASD」のカップルが必要な「歩き方」とは、そんなことなのだろう…と、私は思うのです。

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