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スタートラインに立つ。

ASD理解覚醒の救世主現る、の巻。

同居して2年目の去年の夏、
夫の転職で、夫婦関係がギクシャクし、しばらく私が実家に帰ろうかというところまで精神的に追い詰められていた時、私たちは、とあるブログと出会う。

まず同居したての新婚早々ぶち当たった違和感は、自宅で食事をすると、私がまだ食べ終えていなくても、自分が先に食べ終わると夫はサッサと空いたお皿を片付けてしまい、会話も弾まないまま「食べる作業」のような食卓では、私にとっては気持ち的に美味しく食べられず、全然リラックスができなかった。

この問題の正体は、その感覚を話してスッと伝わらないところだった。
私が「食べ終わるまでは片付けないで」「もっとゆっくりしたいよ」とはっきり言ってるのに、何度もそれが繰り返され、やっと片付けるのをやめてくれるようになった!と思ったら、無言で私が食べ終わるまで、じっと待たれる。
いやいやいやいや…え?
それはそれで落ち着かないしだな…
それまで外でしか二人で食事をした事がなかったから気付かなかったが、この人に「楽しい食卓」という感覚をどこから教えたらいいのかな?と、気の遠くなる心地がした。

そうして、生活する中で、他人には伝わりづらいいくつもの細かい違和感と、簡単な話がスッと通じないストレスが積み重なり、私に限界がきた頃たどり着いたのが、ASD当事者視点で日常生活の実例やコラムのようなブログを書かれている、HOTASさんのコチラの記事。


私たちと、ほぼ同じエピソードの書かれたこの記事を、夫にも読ませて二人で顔を見合わせた。

私は
『夫は自分の良かれと思った事を、親切のつもりで私にしてくれていたんだ!?』

夫は
『今まで妻ちゃんのために親切のつもりでしてきた事は、自分の気持ちだったのか〜!』

だーかーらーか!とそれぞれ衝撃が走り、目を丸くした。

夫にとっては食器を片付ける事は気持ちの良い事で、私の立場で私の気持ちを考えてくれるのではなく、夫の気持ちで考えていた。私に対しての親切として…!

私は脳が揺れるような、何か頭が混乱するような、奇妙な気持ちになりながら、その時初めて、自分たちの間にある深い溝を可視化できたような気がした。

夫がASDっぽい事は同居してすぐ、気付いてはいたものの、知識を聞きかじった程度で、実体験と結び付いておらず、本人に至っては自分の事なのに、全然ピンときていない様子だった。
だけど、将来の話し合いで、連日のように話が平行線の揉め事が続き、私が疲労困憊して、その様子に夫は他人事のように困っている状態が続いていた時だった。(あくまでも本人は困ってないと言う…)

その中で私が『夫には主語が”自分”しかない』という事には気付いていて、難しい事はいいから「私は〜だと思う」という話を聞いて理解したら「妻ちゃんは〜なんだね」といった趣旨の返事が欲しいけど、難しいなら主語をそのまま私に変えておうむ返ししてくれるだけでいいんだけどなぁ、と言ってもそれがどうも無理なようだった。これでは、私の意見や気持ちを受け止めてもらえる手応えが一向にないし、夫がどう解釈しているのかも分からない。会話のキャッチボールが成り立たないのだ。
この時、以下の3点が私との意思疎通を邪魔しているようだった。

①「妻ちゃんは〜なんだね」の『〜』の内容が分からない
(実際は『〜』の内容は理解処理済み)

②話を聞き終えたそばから忘れていく
(次の言葉が頭に入るたび、言葉が上書きされてしまう)

③主語を私視点にしようとすると「頭にポッカリそこだけないみたい」でできない
(言葉だけで記憶する事が難しく、理解済みの話をわざわざ他人と確認する必要性を感じられない)

(①〜③は私の受け取り方と夫が当時言っていた言葉。かっこ内は、のちに夫自身が分析した内容)

これらは、有名な『サリーとアン課題』などで言うところの『その人の心の視点に立てるか』の心の理論そのもので、つまり夫は、私の心の視点に立つ事がいくつもの要因によって「非常に」難しいようだった。その明らかな欠落の実感はあっても、明確に頭の中に言語や思考として認識できず、二人でモヤモヤとしていたところをブログに翻訳してもらえたような気持ちだった。

しかしこれ、夫婦継続可能なのか?と、途方に暮れ、私はネット上を片っ端から漁っていった。この「鏡を持たない」と例えた話も、とても参考になった。

夫自身も、自分とは何ぞや?を言語化されたものに初めて出会ったからか、HOTASさんのブログを1日で全て読み尽くし(文章を読むのは苦痛な人なのに!)、自分がASD特性を持っていることを確信し、自覚に至った。
私もASDの特性とは、実際のところそういう表れ方をするんだ!と、大枠で理解でき、そして、そんな認知の仕方をする人たちがいるんだ…と心底驚いた。
夫、今までどうやって生きてきたんだろう?逆に凄くないか…?と興味も湧いた。

でも、そういう事ならば、できるようになるとか、させるというのではなく、どういうところで私とズレてしまうのか、お互いの『違い』を把握していく事で上手く疎通できる方法が見つかるのではないかと、私はその時すでに直感していた。

自覚から自認へ

本人が自覚できたからと言って、私が理解できたからと言って、そこからすぐにコミュニケーションがスムーズにいくような簡単な話ではない事は分かっていた。でも少なくとも、『ASDと定型』という認知の異文化同士が、共同生活していくにあたり、どちらか一方だけが理解しているのでは、もう一方は苦しくなるだけだ。
特に自分のことを把握するのが苦手なASDの持ち主本人である夫が、その特性を自覚し、さらに、私が理解して関係が成り立つ事も含め、自認してくれない限りどうにも始まらない。そして自認ビフォーよりアフターでは実際、私の精神的な苦しさはかなり軽減された。ビフォーは、一人虚しく奮闘しているようなものだったから。

ASDは「他者との関係において」感情世界の盲者のようなものだろう。私がいくら介助しても夫からはそのサポートは見えない。本来パートナーならば感情面も、二人で協力し合うところを、私が手をとり、一人で二人分この先も案内して行かなければならないのに、それに気付かれず一人で歩けていると思われたままの生活が続いたら、私の心はいつか折れる。
私は全力で夫のASD特性のことを理解するから、二人の間にやり取りがある以上、見えなくても私が常に支えている状態なんだと思って欲しいと伝えた。

そしてもう一歩踏み込むと、実はこれ、私から見た表面上は、私が一方的に耐えて頑張っているかのようだが、実際、夫がかなり不利な状態に立たされている。なぜなら、私にとって「できて当たり前」のゼロ地点まで浮上しない限り、私からはその努力が何も見えないから、夫の努力はゼロより下のマイナスになり、無かった事にされてしまう。しかも、その無念な感情を言葉に表現する事もできないため、なかなか努力が報われない。

例えば、私の感覚が「会話のキャッチボールができて当たり前」をゼロ地点として立っている限り、夫が自分の力を100%振り絞って「話を理解すること」を頑張っていたとしても、私が望んでいる「話した内容を汲んだフィードバック」までできなければ『不合格』のハンコが押され続けてしまう。

だからこの構図を理解してから、私にとってのゼロ地点を一旦取っ払い、夫が努力して返事をしてくれたと気付いたら、褒めたり、お礼を言ったりするようにした。「そっかー」とか「なるほど」など言葉を発して私の話に相槌が打てたら、私たちの間では上出来で、私は喜んだ。そして、ちゃんと返事が欲しい込み入った話の時は、時間のある時にゆっくり話したり、文章のやり取りに切り替えたりした。

夫は自分ができる限りの精一杯を尽くしても、相手を満足させられない辛さがあり、私は精一杯やってもらえていると分かっちゃいても自分の感情が満たされないという辛さを抱えた状態。
つまり、夫のハンデと私のサポートを、互いに理解し、尊重したトントンの状態とはこれだった。

こうして私たちは、ようやく夫婦の支え合いという人間関係のスタートラインに立てた。

その後もかなり苦戦しつつ、スタートラインに立ってから半年ほど、お互い異文化コミュニケーションの理解が頭の芯まで馴染んで定着するまでは、大変だった。会話だって相変わらずなかなか上手くはいかなかった。
だけど定着までのその過程は端折って、次回はこの苦しさを抜けられたターニングポイントの話をしようと思う。ただ我武者羅に理解を深めるだけだと、まだもう一歩足りず、むしろお互い近寄るほどチクチクと痛い「山嵐のジレンマ」になってしまう。目指す方向が分からないまま、努力を続けるというのは本当に怖いし、心細い事だ。
あくまでも、私たちの体験談に過ぎないけれど、似たような悩みを抱えた方たちへ、私たちがオンライン上のブログやTwitterのフォロワーさんたちに助けられてきたように、私たちの経験も誰かの行き先を照らす灯りになれたらいいな、と思う。

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