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Episode 664 「でも」の回避があったのです。

私は本州日本海側の某政令指定都市で、小さなちいさな発達障害者の自助会を運営しています。
毎月1回のペースで開催し、2月の定例会も先の日曜日(2/19)に終えて、次の3月定例会で48回目…早いもので開始から丸4年の月日が流れようとしています。
ここまで続けてこれたのは、単に参加される皆様がいてこそのことだと、ありがたく思っています。

ところで私は、この自助会を立ち上げる以前に、実地開催の自助会に参加したことがありません。
それはこの地域に(行きたいと思う)自助会が存在していなかった…という点も理由としてあるのですが、本当の理由はそこにはなかったのではないか…と感じています。

それは、私が教えを乞うことに大きなストレスを感じるからなのかもしれない…と思うのです。
先日 Twitterで『発達「機会活用動機脆弱」障害』という言葉を見つけて、イロイロと思いを巡らせています。

つばさ(@tsubasawing47)さんのツイートに出てくる『発達「機会活用動機脆弱」障害』という言葉の説明は、ツイート上のテキスト風の画像に書かれている通りです。

・成長するための機会を活用すようとする動機付け(モチベーション)が弱いため、多くの人にとっては機会となりうる内容が、機械になりえない。
・また、動機を自ら育てたり、他者に育ててもらうことにも困難が付きまとうこと。

この文章を読んですごく納得できるのに、どこかしら釈然としない気持ちが残るのは、機会を活用に対してのモチベーションはあるけれど、アクションに繋がらない部分を感じているからかもしれません。

過去のnote記事「聞けない理由があるのです。」には、次のような一節があります。

ASDの私は、「指摘される」ことを「自分の気持ちの調整ができない」という自閉的思考で跳ね返すことになるワケです。
「指摘される」とは、自分のやり方の「理に適っていない部分を示される」ことになるワケで、そこの部分だけを修正すればより良い状態に近づくことになるハズ…なのですが、「ペルソナ」の形成が弱い私は、指摘を受けた部分を「私の侵害」として受け取ることになるワケです。
そこには「教え教えられる関係」「お互い様」で人格を侵害される心配がない、という無意識の理解が欠如しているASDの姿がある…。

note記事「聞けない理由があるのです。」より

「でも」「だって」という、出来ないとかしたくないことの理由つけに使う接続詞は、言い訳をするヤツの代表的な口癖として嫌われることが多いのですが、ASDの私が「何でしたくないのか」…と言えば、「失敗が怖いから」の一言で片付きます。

そしてツイートで示した通り、ASDの私にとって「失敗する」や「できない」ということは、「あり得ないこと」だった…に導かれる理由はカンタンです。
私はあなたとのトラブルを避ける方法として、指摘されないようにするライフハックを体得したから…それがASD「受動型」だということです。

私の意見としては、ASDの原型は「積極奇異型」にあり、ただ何でもワガママは許されないから「積極奇異型」のままではいられないのです。
そこで、心の理論の獲得の弱さを補う方法として私の気持ちを仕舞い込み、あなたの意見に迎合するワケですよね。
私の思う「受動型」とは、つまりASDの原型である「積極奇異型」から派生した亜種です。
これは私の経験から導かれた実感です。

受動型を体得した結果、迎合して上手くいった方法は「安全」なワケですよ。
私のやり方に拘るのは「自我の表現」として拘っているのではなくて、指摘されることがないようにする防御である…と。

「自我の表現」をすると咎められる…これは、ASD的な心の理論の弱さから、あなたと私の意見の調整をする能力が育たなかったことが主因なのでしょう。
だからあなたの意見を受け入れる受動を体得するワケです。
その受動の中で私の行動の安全を守るためには、指摘を受けない方法を繰り返すことが求められる…と考えた時、今までと違う方法を試すには相当な勇気が必要になる、そう思いませんか。

あなたの指摘をなかなか聞き入れられない、「でも」「だって」といって渋るASD者の心中は、試してみたい気持ちを上回る失敗時の恐怖ではないか?

私は参加者として自助会に参加することなく、自助会の主催者になってしまいました。
それが良いか悪いかは分かりません…主催して直に丸4年が経過するワケですから、自助会としては成立しているのでしょう。
ただ、自助会に参加しようとするアクションに大きなストレスがかかっていたから、そのストレスを回避するために自助会の主催者になってしまったように思います。

地域に自助会があるという点については、この自助会の意義としてひとつあるだろうとは思います。
でも、この自助会を作った経緯に、私のASDとしての苦手回避が関係していた可能性があることは否めません。
この自助会を今後も続けていくにあたって、会の運営に「でも」「だって」が顔を出さないように…と、そんなことを思うのです。

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