Episode 627 積極的な受動です。
以前に私は、私の感覚としての「さわる」と「さわられる」の違いについてお話ししたことがあります。
その記事の中でも書いた通り、私は単純に「おんぶは○」で「だっこは×」なんですよ。
だって、おんぶは自分の意思でしがみついているけれど、だっこは自分の意思でしがみついているのではなく、抱き抱えられているじゃないですか。
私は、自分の意思とは関係なく人に体を触られるのをが好きではないのです。
「おんぶが○」で「だっこが×」な理由は、これだけで説明できると思っていました…でも。
…なんて「チコちゃんに叱られる」みたいなノリで、基本的で根本的な部分のアンマッチを指摘されてしまい、私は悩んでしまったのです。
先日のなん(@nankura28)さんとのスペース対談での出来事です。
質問の内容は極めてシンプル。
私の意見を隠し、あなたの意見に迎合することでトラブルを回避し、社会性を確保する行動様式を好むことが多いASDを「受動型」と呼ぶワケです。
その自分の意見を言わないハズの受動型が「頑として人体接触を拒否する」とは、受動型の受動たる理由に反すると思いませんか…ということです。
受動型と言われるASDの成り立ちについては、以前に考察したことがあるので、そちらの記事を読んでいただくとしてですね、確かに自分の意見を言うことを極端に恐ることが多い私が、人体接触に関しては積極的に「拒否する」という意見を言うことを恐れないのか不思議と言えば、その通りです。
スペース対談から一晩考えて、私なりに「あぁ、そうか」と腑に落ちた「問いの答え」は、受動型な思考を獲得する過程にありました。
トラブルを避けるために「積極的に」受動型を獲得した…ということです。
思い起こせば私の子ども時代に、自我を曲げられずにクラスメイトとケンカになり、その仲裁に入った「大人」からも怒られたのは良く覚えています。
結果として「大人の言うことを聞き、クラスメイトとの接触は極力避ける」スタイルを確立することでトラブルの回避を図ったワケで、コレが即ち「受動型」の形成だったのだろう…と。
こう考えると、全ての辻褄が合うのです。
「受動型」と言う名称ゆえに、「〜される」「〜させる」と言うことを容認するようなイメージが持たれがちなのでしょう。
でも、それは、きっと違うのです。
自分の意見を言うことに対して消極的であることが、自分の意見がないと言うこととイコールではない…と言うことです。
ただ、自分の意見を言うことと、その代わりとして盾にする「社会的に一般的とされる価値観」の見分けがつかなくなることはあるのだと思います。
何故ならば、トラブルを避けるために長年にわたって社会的価値観を盾にして自我を仕舞い込むことを良しとしてきたから、自我を出す方法がわからない(訓練されていない)からね。
ところが…ですよ。
「身体的な苦痛」というのは、それを耐えるのは如何ともし難いのです。
私はキュウリを食べる時の「咀嚼音」がどうしてもダメで、それが理由でキュウリが食べられません。
「美味しいから食べてごらん」
という言葉を「受容」して食べられるほど、身体的な嫌悪感は耐性がないのだと思います。
振り返って、「だっこは×」の感覚です。
人に体をを触れられる嫌悪感は、私の身体感覚に起因する特性/性質なのだと思います。
あなたと私の言葉によるコミュニケーションは、避けようと思えば避ける方法があるワケですが、身体感覚については五感にダイレクトなハナシですからね、避けようがないのだと思うのですよ。
だから普段は受動型でおとなしい人でも、身体感覚に起因する過敏や鈍麻に関しての対応は、強烈な否定(肯定も?)が前面に出てしまうのだろう…と。
今まで私は、受動型…と言う名称に「騙されて」いたように思います。
受動型とは、腕を開いて全てを浴びるように受け入れるようなものではなく、あなたとの接触をガードするファイティングポーズの一種である…ではないかと。
だとすると、受動型は、自己防衛のための積極的な消極性…ということになるのだろうと、私は思うのです。
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