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Episode 580 折れていないに気づきません。

私の父が認知症を患い、認知症対応の高齢者向け「グループホーム」に入所した…という話を先日しました。

認知症にはいくつかの種類があります。
有名なのは「アルツハイマー型認知症」ですが、そのほか「血管性認知症」とか「レビー小体型認知症」とか、幾つかの種類があってですね、それぞれに特徴的な症状があるようなのですが、これは介護する側の現場としてはあまり関係ないのです。
原因を見つけて症状の進行を遅らせる…という点については有益な情報なのでしょうけど、徐々に進行する病気で、年齢的に体力的に先の「回復」が見込めない…とされた状態で「治療」を続けるかは、判断が難しいところです。

がん患者が自らの意思で「治療」を選ぶか「緩和ケア」を選ぶか…という問題と近い部分があります…が、認知症の場合「本人の認知能力が低下する中で、自らの意思を示すことができるのか」という根本的な問題が付き纏います。
治療方法を見つけるための検査・入院を次第に理解できなくなっていく状況で、それを望むのか?
認知症の人の介護には、本人の意思が反映されにくくなる状況で、関係する主に親族の意見が「ケアの方向性」を決めることになりがちなのは、経験上否定できないのです。

私が今年で51歳になりましたからね、父と母がどのくらい長い間、共に生活してきたかはわかるつもりです。
時代背景もあり、良い悪いは別にして、「父に寄り添う母」であったことが夫婦生活の基盤であったことを否定できません
ただ、父の現状に対して母の気持ちを100%支えることは…難しい。

ワクチン接種の効果か、コロナ禍も今はその勢いが抑えられる傾向の中で、如何にして父との生活を取り戻そうかとする母と、要介護認定3の父の安全安心を考えたときに、母に父を預ける危険性を心配する私の意見はぶつかります。

年老いた母の気持ちを汲めないワケではないのです。
ただ、母の気持ちに寄り添う方向の意見に妥協点を寄せるほどに母の介護負荷は増し、私の不安は増えるのです。
父を施設に入所させるに至った背景には、介護による過労によって母がダウンする経緯があったワケで。

年老いて体力にも思考力も弱っている母と私の「論戦」になれば、確実に私が勝ちます。
田舎暮らしで交通手段の乏しい母は、クルマという機動力を持つ私の支援は確保したい部分でもあり、そういう意味で立場的にも母は弱くなっているワケでして。

結果的に、母の意見は通りにくいのです。
状況的に見ても、物理的にも、母の願いは「無理難題」で、それを通そうとすれば、父のいる施設や親類などの協力を取り付ける必要がある…日々の生活を調整して母の願いに付き合うことになるから。

母はポツリと本音を吐きます。
「私の意見はひとつも通らない。」

最愛の父と生活を共に出来ない母のやるせなさは、分かるつもりです。
でも、私には上手く「父の現状」「母の気持ち」「私の生活」の妥協点を導くことが難しいのです。

私は改めて自分の欠点と向き合うことになるのです。
これは当に、「自閉の本質である『自我のコントロールが難しい』ことによる、折衷案の提示ができない」なのだろう…と。

そしてこのやり取りは、助けを求めた相手からの「なんでそうなる?」という「オープンクエスチョン」に答えられない事態になるまで気が付かず、振り返って紐解くことで見えてくるのです。

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