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Episode 694 裏には「生きる」が隠れてます。

日本で生活している私たちは、トウモロコシというと「野菜」である…と思いがちなのですが、実は米・小麦とともに世界三大穀物と呼ばれる、人の主食となる作物のひとつなのですよね。
一年を通して人の生活を支える穀物は、旬の新鮮野菜と違い、収穫後の乾燥処理が必要なのですよ。
主食は長期保管ができることが必須条件…腐ったりカビたりしては困るワケです。

日本でトウモロコシと言えば、先日のBBQで美味しく頂いた焼いて茹でて美味しい「スイートコーン種」を指すことが多いのでしょうが、コレは世界のトウモロコシ生産量で見るとごく少量で、多くは「デント種」や「フリント種」という主に家畜の飼料やデンプンの原料、そしてトウモロコシ粉として使われる品種なのだそうです。

さて…私は以前に、ASDの自覚についての経験をイソップ寓話の「北風と太陽」になぞってお話ししたことがあります。

このお話の中で私は "Reset" と "Continue" という言葉を使って、ASD的なライフハックと社会との相性の悪さを指摘したのです。

何故ASDの私が失敗を糧にする ("Continue") ことが出来ず、同じことを繰り返して ("Reset") してしまうのか、その謎については「"Reset"せざるを得ないのです。」で詳しく書いているので、そちらをご覧いただきたいのですが…。

話のサワリを言うとすれば、他者視点がない(弱い)ASDの私が誰かとトラブルを起こさず社会生活するために、誰もが納得する価値観を私の行動規範として求めた…それは私を守るための知恵であり、誰もが納得する価値観(のハズ)であるから、その変更は考慮されない…という理屈で "Reset" が成り立っている…という視点でのお話です。

そもそも「完成された価値観」に縋ることでトラブル回避をするワケですから、私の「トライ」が失敗するハズがないのですよ…理論的にはね。
ところが上手く行かないケースが出てくるのです。
当然ですよね…その場その場で状況は変化しているのに、毎回同じ方法で必ず上手く行くワケがないのですけど、その状況に合わせて行動を調整できないから、失敗するワケです。

他者視点がない(弱い)からこそ、他者視点にを考慮した状況判断に頼らずとも咎められることがない「強大な価値観」に沿った行動を生きる道として選んだASDの中でも私のようなタイプは、全体的には無難な行動を取りながらも、何度も同じ場所で躓く失敗をするのです。

気が付けば "Reset" で再スタートしたハズの私の周りには、私が "Reset" する時に放棄した行動の残骸が山盛りでした。
私はその残骸を "Reset" で見て見ぬふりし、その一方で周りの人たちはキチンと形あるものとして残骸の存在を認識していたということなのでしょう。

note記事「動いて汗をかくのです。」より

その他多勢の枠から私を見ているのなら、その失敗はさほど気にならないでしょうし、失敗を「ないもの」として "Reset" してもスルーできるでしょう。
でも、私との関係が強くなればなるほど、"Reset" の違和感も強くなる…何故あなたは失敗から学ばないのか?

現代用語としての日本語で語られる「カサンドラ」とは、こうした一見まじめで優しく「良識ある社会人」に見えるASDパートナーの、「良識ある社会人」たらんと努力する行動によって引き起こされる…私は経験的にそう思っています。
指摘された「失敗」を糧にして、そこから "Continue" して行く "Restart" という選択は、トラブルの素として封印した「自我」を引き摺り出す恐怖を伴う…。

私が社会をサバイブするために必死で見つけた「社会的常識への依存」とは、失敗しないための方法だったワケです。
その方法で失敗するハズがない…常識的で間違いのない方法を選んでいるから。
だからやり方を変えないし、変える必要もない…と、信じられる…私の過去を振り返り、そうだったと思います。

残念ながら、この受動型過剰適応は「適応するためのステルス性」しかないから、失敗して見つかった時のリカバリ性能はゼロなのですよね。
だから "Reset" せざるを得ないワケで、それもこの方法で社会をサバイブするために必要だったのだと思います。

結果として「私の生きるための知恵」があなたのストレスを生み、「カサンドラ」と呼ばれる「誰にも理解されない」苦しみを作ってしまったとしたら、それは大変申し訳なく思います。
一方でそれは、私も生きる道を探した結果だったことは、間違いないことだった…とも思います。

日本という国の中でトウモロコシと言えば、甘くて美味しい「スイートコーン種」を指すのか一般的ですよね。
実は私は「スイートコーン種」ではなくて「デント種」だったのでしょう。
ても、デントとして生きる道が用意されていないとすれば、どうにかしてスイートコーンに紛れ込む必要が出てくるワケです。
見た目はトウモロコシでも、その味わいに違和感は、当然あるよね…。

スイートコーンにはスイートコーンを美味しく味わう方法がある様に、デントにはデントの用途があるワケで、それでもスイートコーンの調理法しか認めない、あなたは甘くないし美味くない…なら、それには無理があるよね。

「カサンドラ」と呼ばれる方の苦しさを否定する気はありません。
ただ、ASDの私が「この道を生きる」のは、それなりに理由があってのことと思うのです。
「カサンドラ」のパートナーとは、そんな努力をして社会を生きてきた方なのだろうと思うのです。

「カサンドラ」の苦しみの裏側には、ASDの「生きるには」が隠れているのだと、私は思うのです。

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