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Episode 528 できる基準が問題です。

『フルメタル・ジャケット』(英語: Full Metal Jacket)は、スタンリー・キューブリック監督のベトナム戦争を題材にした映画で、1987年に製作された作品です。
その物語の前半部分では、海兵隊の新兵訓練施設での過酷な訓練の様子を描くのですが…。

ベトナム戦争時、アメリカ海兵隊に志願した青年 ジョーカーは、サウスカロライナ州パリス・アイランドの海兵隊訓練キャンプで厳しい教練を受けることになる。
キャンプの鬼教官・ハートマン先任軍曹の指導のもとで行われる訓練は、徹底的な叱責と罵倒、殴る蹴るの体罰が加えられ続けるという、心身ともに過酷を極めるものだった。
さらに連帯責任による懲罰、訓練生の間で行われるいじめなど閉鎖的な空間で受ける社会的ストレスが次々と描かれていく。
落ちこぼれだった訓練生レナードは、ハートマン軍曹から早々に目を付けられ、レナードの連帯責任として懲罰を受けることになった訓練生たちからも、激しいいじめを受け続ける。
しかし、ジョーカーら同期生のサポートを受けて訓練をやり遂げ、最終的に射撃の才を認められ高い評価を得る。
だが、過酷な訓練により精神に変調をきたしてしまい、卒業式の夜にハートマンを射殺した後、自ら命を絶ってしまう。(Wikipediaより)

私はここ数回のnote記事で、歴史的な背景を切り口にして「日本の教育体制と社会構造の成り立ち」についてお話してきました。
その話を書きながら、私は「モヤモヤした気持ち」を抱えていたのです。
それは、「発達障害者だから学校ではみ出すのか?」という問いです。

私はASDという診断を受けた障害者手帳所持者です。
先天的な障害であるため、生まれてこの方、学生時代も含めてASDではなかったことはありません。
その私が自分自身を振り返り、学生時代に「躓いたと感じた」とは思えていないのです。

もちろん、今思い返せば「明らかな」ASD的エピソードが数多くあったのは事実です。
そのエピソードの数々は、このアカウントの過去記事を読み返せばワンサカ出てくるワケですが、それらのエピソードを以ってしても、「お前はASDだ!」という言葉の剣で、私の心臓を一突きにするような致命的な出来事は、「ひとつも」なかった…ということを意味します。

おそらく学習障害(LD)や注意欠陥/多動症(ADHD)の方は、学生時代に発見される方も多いのだろうと思うのです。
それは、学習面の凹が目立つ…つまり学習指導要領が求める学年相応の学習目標に「明らかに到達できない」分野があるとか、年齢相応の生活指導で、「落ち着きがない」とか「忘れ物が多い」などの取りこぼしを指摘されることで、発達障害に起因するマイナス面が見えるからでしょう。

その一方、ASDは「従来型の自閉症(カナー型自閉症)」のイメージが強いため、拘りが強くマイペースであることが「発見の基準」に置かれるのではないか…と私は感じます。

以前に私は、カナー型自閉症とアスペルガー型自閉症の差についての記事を書きました。

この両者の差は「知的障害を伴うか」…の一点のみだというのが私の意見です。
知的障害を伴わないアスペルガー型自閉症の私は、コントロールできない私の気持ちを弄ることを諦め放棄して心の奥底に仕舞い込み、社会的な価値観やあなたの意見に迎合して「外ヅラ」を合わせる「生き抜く知恵」を用意することを覚えます。
ASD受動傾向で言われる「外モード」というものが、これに当たります。
カナー型自閉症の方や、アスペルガー型でも衝動性が強く、感情を抑え難い積極奇異傾向の方は、「外モード」を用意できず、自分の気持ちのおもむくまま「マイペース」で行動する…これが、横並び一列の日本の教育体制に引っかかるワケです。

つまり、どのタイプの発達障害についても、障害が持つ本質的な部分の発見によって障害があることを指摘されるのではなくて、国が定めた年齢相応の学習能力や生活能力から逸脱することが指摘されるのだと思うのです。

さらにもうひとつ、発達障害には関係がない知的障害の方が、学校の授業について行けずに取り残されることになる…ここがもう一つの重要なポイントです。
私は、発達障害が療育の対象として支援される側に入れられる基準が、この辺りにあるのではないか…と思うのですよ。

冒頭の『フルメタル・ジャケット』の話は、当時の軍隊式教育がもたらす狂気を端的に描いているのですが、日本の教育現場に蔓延るイジメの問題などにも通じる部分があると、私は思うのです。

「和を重んじる」という名のもとに「自分の気持ちはまず二の次で、学校や社会の理想像に従い…」を良しとする日本の教育方法に限界を感じるのです。
日本の教育でチェックされるのは「学校や社会の理想像」からはみ出た…という部分だということ。
その内容に発達障害の有無は関係ない…ということ。
軍隊の「落ちこぼれ」は、隊全体の足を引っ張り、隊全体を危険に陥れるおそれがある…映画に描かれる教育方法が正しいのかは一旦横に置いて、それは事実なのだろうとは思います。
でも、一般的な児童・生徒の教育で、落ちこぼれることで発生する隊全体…つまりクラスや学校にかけてしまう迷惑って、一体なんだろう…と、私は思うのです。

残念ながら、日本の「教育における力点の置かれ方」は、個人の資質を見ながら考え方を教える…のではなくて、知識に偏重して教え込む…だということです。
それは学習面のみに限らず生活面においても同じで、年齢相応の社会的振る舞いを要求され、適合できるかどうかのみが問われる…ということだと私は思うのです。

年齢相応からはみ出した児童・生徒は「療育」という方向でゆっくり社会性や学力を養う…ただ、それはあくまでも定型社会の標準を目指す話であって、本人の持つ特性や興味の方向は考慮されないワケです。
一方ではみ出さないように「外モード」を駆使する一部の発達障害者は、クラスメイトなどから「変わっている」という評価を受けながらも、学校教育では発達障害が持つ特性の「全て」をスルーして卒業することになるワケです。
何にしても、特性に注目した上で根本的な部分に焦点を当てているとは言い難い、これで社会で躓かない方がおかしい…と、私は思います。

何度も言いますが、私は今の教育体制が出来上がる過程には、出来上がるなりの理由があったと思っています…必要に迫られて今のカタチになったのだと。
それを否定する気はないのですよ。
ただ、その仕組みは完璧ではなかった、少なくとも私の経験から、発達障害者に対する対応は完璧ではなかったと思うのです。

今の日本の教育体制で児童・生徒が躓くか躓かないかは、年齢相応の社会性と学習能力の基準をクリアできているのかにかかっている、残念ながら、それが表面的な真似ごとであるかは関係ありません。
定型者であろうと発達障害者であろうと、このクリアするべき基準がストレスになる可能性はあり、発達障害者はどうしても定型者よりもストレスを受けやすくなる…ということなのだろうと思うのです。

冒頭で紹介した映画『フルメタル・ジャケット』、是非見てほしいのです。
私たちは閉鎖空間での教育におけるストレスの正体を知る必要があります。
到達目標が「できるできない」で指定された場合の、「できない」がもたらすストレスは、できない人だけに影響を与えるワケではないのだと、私は思うのです。

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