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Episode 508 中間点ではダメなのです。

「天空の城ラピュタ」と言えば、宮崎駿監督の名作アニメーション映画ですよね。
飛行石をめぐる大冒険スペクタクル…なのですが、「空飛ぶ島ラピュータ」は元々アイルランドの作家、ジョナサン・スウィフトが「ガリバー旅行記」で描いた架空の都市なのです。
このことは「天空の城ラピュタ」でヒロイン「シータ」を全力で守る少年「パズー」も劇中でハッキリ喋っていますよね。

「ガリバー旅行記」は絵本や童話にもなって馴染みがある、小人が住む「リリパット国」の話が有名ですが、原作は絵本の中のガリバーのような「いいひと全開」の「お伽噺」ではありません。
この話の正体は「ぶっ飛んだ設定」に紛れて、当時のイギリス社会を批判する風刺小説なのですよ。
偶然にも小人や巨人が住む国、馬の国や空飛ぶ都市に迷い込んでしまったガリバーは、見知らぬ風習の国に「マイノリティ」として放り込まれ、それぞれの国の「マジョリティ」を興味深く眺めた見聞録として手記を書いた…という体裁を取っているのです。
自分とは違う多数派の人たち…という視点を使うことで、「常識とされていること」への問題提起を分かりやすい形で示した…ということだと私は思っています。

さて先日、私はTwitterでこんなツイートをしました。

この話はスウィフトが「ガリバー旅行記」で行った、マジョリティがマイノリティに投げ込まれることで、自分が思っていた「常識」が使えなくなる…という手法の応用です。

この理論は、以前に「左利き」を題材にして書いた記事でも取り上げました。

記事中にも書いた通り、ポイントになるのは「世の中はマジョリティが有利なようにできている」という事実です。

10人にひとりが左利きですから、仮に左利き用の自動改札機が10台にひとつの割合であれば良いじゃない…なんて単純な割合の問題は通用しません。
それこそ逆向きの自動改札機があったら、朝晩の混雑時間帯で「あれ、切符を入れる投入口がない!」とか、「ICカードをどこにかざすの?」とか、いつもの場所にいつものモノがないことで逆に大混乱を招くでしょう。
つまり、左利きには右利き用に出来上がってる社会に適応する能力を求められているワケです。

ASDを自覚して、それでも定型のパートナーと共に歩むためには、ASD側にも定型側にも努力が必要だと私は思います。

ただし、お互いの努力量は「50:50」であっても、たどり着く「着地点」はASDと定型…お互いの距離の中間、というのは現実的に難しい…と考えます。
なぜならば、世の中は「定型が標準」で動いているから。
世の中で生きていくためには、マイノリティがマジョリティに寄せていった方が安定しやすいのは事実なワケです。
これは、左利きの話で説明した通りなのです。

然るに…ASD側の努力とは、自らのASD特性を理解して「できる範囲で」定型の思考を学習して寄せていくということになります。
これはもちろん、「形だけを真似する(≒擬態/外モード)」ということではありません。
その上で、できない部分は「できない」ということを認めて、フォローを仰ぐ謙虚さが必要…ということです。

定型側のフォローとは、ツイートした言葉のようなことなのだと私は思います。
それは、ASDの努力でどうしても補えない部分の「ゲタ」であって、目線の高さを合わせるためのフォローだということ。
足が付かない立ち泳ぎでは、いずれASDは疲れて溺れてしまう…だから足が付く分だけのゲタを履かせるということ。
ASD×定型のパートナーシップとは、こんな「お互いの努力」で成立するのだと私は思うのです。

最後に、定型のパートナーに感謝の気持ちを込めて、この記事を。



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