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Episode 467 常識は厄介なものなのです。

私は学生時代に歴史学を専門に扱っていました。
その辺りの話は度々このコラムの中に登場するのですが、歴史学というのは、どんなに研究が進んでも決して答えの出ない学問である…と私は思っています。

死人に口なし…文献や資料などでどんなに状況証拠を揃えても、最終的にその当事者の口から真実が語られない限り、本当のところは分かりません。
だから、歴史学の「常識」は時代によって解釈が変わり、揺れ動くものなのです。

さてさて…かなり脱線したのですが、『トロイの木馬』の話に戻りましょうかね。
前回までは、ASD的なトロイの木馬の外枠が「積極奇異傾向」で、その内側に「受動傾向」が隠れている話をしたワケです。
そしてその受動傾向をコントロールしているのが「常識・道徳・世間体」という社会的な価値基準で、自分が定型社会からこぼれ落ちないようにチェックするための器であると指摘しました。

大好きなあなたを射止めるために、私は自分の価値基準(社会的常識基準)を捨て去る積極奇異モードを発動するのですが、射止めた後もずっと積極奇異の状態ではいられないのです。
それは、積極奇異が外モードというマジックであると説明した通りなのですが、その状態は私自身の価値基準から片足浮かせた状態で不安定な体勢だと、私は思っているのです。
だからどうしても安定を求めてしまうワケなのです。

ところでですよ、私が身に付けた価値基準の入手先って…?

察しの良いみなさんならもうお分かりかと思いますが、私が常識だと思っていることは、そう感じているだけだということ。

TVのニュースや新聞などで「まことしやかに」言われていることを見聞きしているだけで、それの信憑性については…どこまで真実なのでしょうかね。
問題は、自ら考えて意見を持つことにダメ出しをを受け続けたASDの私が、社会的な常識とは外部から与えられたモノだと思い込むことです。
仮にそれが「誤った情報」だった場合、訝しい…と思うことが出来るのか?

ASDの受動傾向で自ら意思決定できない割に、自分の意見を押し通すように見える「それ」は、この辺りが影響しているのではないか…その具体的なお話しは「中身のない恋愛」について書いた上のリンクから過去記事を読んでいただくとして…。

ASD受動傾向が表に出てしまう時の私は、自らの意志を表に出さない割に自己主張の強い「張りボテ」に見えるのだろうと思います。
但しそれは、私から言えば自分の常識に基づいた行動であって、自分自身が主流の保守であると疑いもせずに思っているということ

私が掴んだ「常識」とは、いったい何だったのか?
世間の言う「常識」とはいったい何なのか?
それに気が付くということが大事だということになるのでしょうが、生きるためのライフハックとして外部から「常識」を取り込むことに慣れているASDの私は、未だにこのトラップに嵌ることがあってですね…。

私はどう考えるのか?
巡り巡ってここに立ち返ることになるのです。

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