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Episode 682 「普通」を哲学するのです。

「哲学」というと、偉大な哲学者の理論や思想を知ること…のような気がしている人が多いのだと思うけれど、本当はもっと間口の広いモノなのだと私は思うのです。

哲学(てつがく)とは、語弊を恐れずにわかりやすく言えば「真理を探究する知的営み」のことです。
世界の根源や本質を見極めるための知的探究的な取組み、および、その知的探究を方法的に進めるための学問です。

実用日本語表現辞典「哲学」より

前回のnote記事にも登場する、日本学術会議の報告「道徳科において『考え、議論する』教育を推進するために」ポイントで表現される「子どもの哲学」の導入という発言の意味も、「世界の根源や本質を見極めるための知的探究的な取組み」を求めているのであって、子どもたちに哲学者の思想を教えることを求めているワケではないのですよね。

前回のnote記事では、設定を変える思考実験によって「普通」という数的優位な環境が作り出す言えない環境の成立と、それ故に「聞く耳を持つ」ことと「言える環境の整備」が大切なのだと、私は指摘したのです。

それを踏まえて…。
ASDは "Autism Spectrum Disorder" の略であり、日本語表記は「自閉スペクトラム症」です。
ASDの「D」… "Disorder" の直訳は「障害」なのですが、この「障害」は何を指しているのか…と問えば、「社会一般(≒普通)の人から見て "Autism(自閉)" の状態にある人」ということであり、それが "Disorder(障害)" であるということ…というあたりが適当な回答例でしょうかね。

ここでいう「社会一般(≒普通)の人」は、つまり普通という数の論理の優位に守られている…ということになります。
その数的優位を以て「 "Autism(自閉)" の状態にある人」を「 "Disorder(障害)" 」と認定している…と、言えなくはないのだと思います。

ところで、ASDの私と定型(典型) のあなたとのパートナーシップという関係性において、「 "Autism(自閉)" の状態にある人を "Disorder(障害)" である」と言うことは可能なのか…という問いならどうでしょう?
1:1 の関係に数的優位性は発生しませんけど…。

コレは「障害」とはなんだろう…を問う思考実験です。
ASDは障害ではない…などと屁理屈を言ってゴネるつもりはありません。
ただ、障害というのは定型(典型) から見て能力が劣るもの、それ故に弱者として保護と福祉の対象とするという考え方には、多数派の「普通」という数的優位が存在することは理解しなければならないだろう…と思うのです。
そしてその「普通」は物理的な多数という相対的優位性によって成り立っているワケで、絶対的な不動ではないということも言えるだろう…と。

世の中は多数派に都合よく作られ、多くの人に便利な世の中だからこそ、世界は効率良く回っているのでしょう。
だから今の世の中に竿を刺して流れに抗ってみたところで、流れが急に変わるワケはないのですよ。

但し、それはあくまでも社会一般に対してのアプローチであり、"You & I" の関係性で多数派の都合が無条件で通るか…というあたりには考慮が必要なのではないかな…と。

「普通」という数的な物理的優位性で成り立つ概念から「障害」という事案を眺めると、「普通」という概念の社会的な役割が見えてきます。
「普通」には世の中を効率良く回転させるための不文律の側面があり、コレに乗ることで社会は円滑に動くということは、先ず間違いないでしょう。

ただ…注意が必要なのは、「普通」を形成する分母が小さくなる(小集団になる)ほど「普通」の効果は小さくなり、時代背景や地域文化により「普通」の内容は変化するワケです。
こう考えると、「普通」の危険性みたいなものも見えて来るように、私は思うのです。


ここ何回かのnote記事は、「哲学」という言葉がキーワードになっていたように思います。
私はその「『哲学』とは何ぞや?」を、「具体的なお題」を使って示してみたかったのです。
冒頭にも触れた通り、哲学とは「真理を探究する知的営み」のことであり、自ら理論的に考えをまとめる行為である…ということです。

私が今回のnote記事で書いたことは、「普通」についての私の意見であり、それとは違うあなたの「普通」があるのでしょう。
この人の数だけある「普通」の考え方を、数的優位の「普通」が潰すことがないように…などと、私は思うのです。

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