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『ロング・グッドバイ』または義理と人情という言語

ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』を観た。
私はマーロウが好きで、マーロウ好きとしては、その人物像やラストに「え…?」となったものだ。
最初の方は思考停止で原作至上主義に陥っており、「ありえない、こんな終わり方」と憤ったし、「ていうか、このベルモンドみたいなマーロウはどうにかならんのか?」と思っていた。
(私は映像なら、ドラマ版のマーロウが結構好きです)
でも、しばらくすると、この映画も原作をはなれて一つの到達点だなあと思うようになった。一言でいうと、好きだなあと。

最後マーロウは、友人のレノックスをなんと撃ち殺してしまうのね。
レノックスが、自分の浮気を開き直って認め、死人を馬鹿にするようなことを言うから。
この一撃って、マーロウの世界への拒絶なんじゃないかと思った。
マーロウは友人のためにかけずりまわって、警察のお世話になったり、ギャング相手にやりあったりもして、なんとかレノックスの行方を探ろうとする。
だって友人だから。義理があるから。
なのに、レノックスはクズだった。恩も、人に対する尊敬の念も持っていなかった。
「義理と人情」という言語が通じない男に、マーロウは弾丸でさようならを言ったのである。
「銃弾みたいにさようならを言うものは他にないのさ…」
"Nothing says goodbye like a bullet…"

私が好きな伝承があるのですが
平安時代か鎌倉時代か、そこらへんの話。
ある貴族が神社に参って、「お願いします、次の歌会でとてもいい歌を詠ませてください、寿命を数年短くしてもいいです」とお祈りした。
(その当時、管弦和歌がどれほど貴族にとって重要だったかはご存じの通りだね)
しかしその男は、歌会で特に秀でた歌を詠めた記憶はなかった。
そして数年後、臨終の際、枕元にあらわれた神に向かって、「もう少し時間をください、お願いします」と祈った。
しかし神は「あのとき、寿命のかわりに歌を詠ませてあげたでしょう?もう手遅れですよ」といって男を天に召したという。
これもね、すごく取引というものを如実に表しているなと思いました。
その時、あなたはこう言ったでしょう?なかったことにはできませんよ。誠実にその約束を果たしてくださいね。
この誠実さというのは、マーロウが持っていて、友人レノックスにも期待した誠実さだったと思うのだ。
君は友人だ、私は君を義理によって救った。だから君も義理を返すのが当然だ。
銃弾によって終わってしまった友情が悲しい。
ただただ、レノックスが落とし前をつけられるような人であれば、マーロウと同じ「義理と人情」という言語をもっていれば二人は通じ合えたのに。

私の文化的パトロンはマフィア映画が好きで、私はその人によってまんまと暗黒映画好きにつくりかえられてしまったのだが、そのせいか、私も義理と人情、約束ごとへの誠実さを過剰にもとめる傾向にある。
あのとき助けてあげたでしょう?今度はあなたの番じゃないの?というような。
いや、こんな脅迫めいたことは考えてないけど、助けてもらってあとは知らない顔をするのはやめなさいって思ってる。優しくするのはお前の勝手だから、感謝の言葉も期待するなっていう令和の傾向はけっこう変だと思っている。
優しくされたら感謝するのが普通じゃないの?恩に着るのが普通じゃないの?いわゆる札束の形をした「誠意」じゃなくても、助けてくれた相手にはいつまでも敬意をもって接するような、尊敬を態度にあらわすぐらいはして当然じゃないのかしら。
でもこういう考えで生きていると傷つくのは自分で、それを「裏切られた」というと、大体他の人からは「期待しすぎ」「自分が勝手に助けただけで、見返りを求めるな」という。
おかしいなあと思っている。やさしさに対してありがたいと思う気持ちぐらいは捧げるべきでしょ。
そういう考えを持たない人が多いので、優しくするとつけあがることもしばしばだよね。やさしさっていうのは言語であって、同じ言語を使った応答が必要なのに。
銃弾じゃなくても、言葉で、それとも去っていく影で「ロング・グッドバイ」を言う現代のマーロウは少なからず今も存在しているのかも、と思ったり。
フィルムノワールかぶれの私も、「義理と人情」という共通言語をもっている人がいたら、大事にしたいと思っている。相手と同じレベルでその言葉を使えているのか時々あやしいけど、でも裏切りたくないなと常々思っています。

だからね、アルトマン版『ロング・グッドバイ』はすごく良い映画だと今になっては思う。彼の銃弾は、まさに長いお別れであり、もはや同じコードが通じない世界との断絶だったんだなって。

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