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トゥーサン『ためらい』

今朝、猫の死体を見た。


トゥーサンは『カメラ』が一番有名という印象が自分の中であった。ただ、『カメラ』はなんとなくあまり自分向きの本ではなさそうな気がしていた。一方『ムッシュー』はかなり親しみやすそうで、その親しみやすさゆえにまた敬遠しているところがあった。表紙がかわいくてトゥーサンは憧れていたけれど、どれを読むべきか決めかねていたのである。


古書市でトゥーサンが非常に安く売られていて、どれかは買って帰ろうとぱらぱら読んだ。その中では『ためらい』が一番好きだと思った。
赤子を連れた男性の話なのだが、少し読んだだけでも作品のメランコリーな感じと、赤ちゃんの世話をする男性という柔らかい印象、その二つが織りなすミステリアスで切ない感触がとても良いと思った。
ただ、なぜかそのときは『ためらい』を買わず、『浴室』と『ムッシュー』(つまり代表作)を買って帰った。確か『カメラ』は並んでいなかったように思う。

だがその後、父親がでてくるあのトゥーサンの小説が読みたいな…と思い出す日々が数年ぐらい続いていた。
読みたいけど、でも別に読まなくてもいいんだよね、というもやもやした状態のまましばらく浮遊していたのだが、昨日なぜか急に図書館に行って『浴室』『ためらい』と続けて読破した。
やや涼しいお昼過ぎの休日がなんだかさびしくて、『ためらい』を読むのに最適だと思ったからかもしれない。
やっぱり、最初に思った通り『ためらい』はとても好きな小説だった。

赤ちゃんを連れたまだ若い男性が、さびれた港村のホテルに滞在しているようだ。
男性はどうもその村に住んでいる誰かを恐れているようで、その誰かから追跡されているのではないかと疑心暗鬼になっている。しかしその男の姿を実際に目撃することができない。逃げているのだ。
男性は赤ちゃんの世話をしながらも、しばしば夜中に赤ちゃんを部屋において、青っぽい月光の中を静かな波音寄せる海まで出かけたり、例の恐れている誰かの家を偵察したりする。そして港から身を乗り出したときに見えた、海のゆれ動く水面に浮かぶ黒猫の死体。
もしかして、あの死体は猫の死体ではなくて、恐れている男を私が殺した、その死体だったのではないか?
そしてある日、また海に出かけると猫の死体は消えていた。それにしても、あの男はいったいどこにいるのか?実は私と同じホテルに滞在していて、私を見張っているのでは?

簡単に『ためらい』を表現するなら、謎のとけない探偵小説と言ってもいいかもしれない。ある男が今どこで何をしているのか、自分を監視しているのではないかと誰かの目線を感じながらも調査する。
解説では、結局この恐れている男というのは村を留守にしていて、主人公の心配はすべて杞憂に終わると書かれている。だから、この探偵小説は結末に至ってナンセンス小説へと姿を変えるのだという。
しかし、私はそう断言できる証拠はないように思う。そもそも、恐れている男が本当に村にいないのかどうか、主人公の男性がしっかりと確かめたわけではなく、「どうやらいないらしい」という推測にとどまる。
それに、この主人公の語りはときに妄想を含んでいたりして、信頼に欠けるところがある。ちょっと分裂気質っぽいような、地に足ついていない感じの語り口なのだ。
私の勝手な感想では、この『ためらい』はナンセンス小説というよりも、やはり探偵・サスペンス小説であるように思う。ロブグリエ『消しゴム』のような徹底した意地の悪いナンセンスと比べると、やはりこのトゥーサンの『ためらい』は作品の中身が「ためらい」で満たされているのだ。

私が印象的だと思ったのは、やはり全編をおおう薄暗いサスペンスと、赤ちゃんを連れた若い男性というアンバランスさ。そしてそこから生まれる、作品全体を満たす甘美でやさしいためらいである。
何度も現れる青い色調、海、波の音、埠頭の灯台の光、砂浜、さびれた村というどこかさみしくて美しい風景も、この作品のメランコリーを増大させて読者を不思議な世界へといざなう。
しかも、この主人公の男性が探偵小説の探偵を思わせるような行動ばかりするのだ。ホテルに自分を追う男がいるのでは、とフロントから鍵を盗んで他の客の部屋に忍び込んだり、男の館に不法侵入したり。しかし、追う男の姿が見えないものだから派手な逃亡と追撃の物語、とはいかない。語り口がつねに静かで、読者をドキドキさせるような探偵小説とはまったく異なる。いわゆる起承転結はほとんどなく、起伏に富んだ物語を探す向きにはまったくおすすめしない。ただただ静かで不穏なミステリーのである。
探偵が妄想まじりの謎を淡々と手探りしていく。結局謎なんかないのかもしれないし、あるのかもしれない。
とても不思議で透明な読後感である。

静かな休日の午後、不穏でやさしく、夜の海の匂いがする小説を読みたくなったらぜひ。


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