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『鬼火』-人生のスピードを速める

フランス人映画監督ルイ・マルが撮った作品、『鬼火』(Le Feu Follet)をご存じだろうか。

一言で言うなら、エリック・サティのピアノを乗せた、いと美しき鬱・哲学映画である。

しかし、これを人に勧めてもらって観た時から(そもそもなんでこの映画を勧めてきたのかまったくもって謎だが)、作品が頭に残って離れない。

それは本筋とは関係ないシークエンスだったり、登場人物のセリフだったり、何とはないモノクロの雨のパリ(映画のパッケージを見るだけで、雨のパリが眼前に浮かぶのだ)。

中でも頻繁に頭に浮かぶのは、主人公アランのセリフ。

「生きていても仕方がない。だから人生のスピードを速めるんだ」

(『鬼火』より引用。なおうろ覚えなので勘弁!)

忙しい生活のふとした拍子に、このセリフを思い出す。

人生死ぬまでのバケーションとはよく言うが、私にはそのバケーションすら長く無駄に思える時がある。

だから、このアランの言葉がひどく心に響いたのだと思う。実際、もし人生を虚しく思うなら、強制終了するかスピードを速めるかの二択しかないのだから。

アランが自殺をすると決め、そして実際に自殺するまでの24時間を描いた作品。

そんな救いもない作品が、どうして私を離さないのだろう?それは結局、「人生は虚しいね」の一言に尽きるのだ。


1.あらすじ


まず、以下にあらすじをざっくりと紹介します(間違ってるかもしれない)。

主人公のアランはアル中で、精神病の人のための施設(サナトリウムか?とにかく、グループホームのような施設)で治療をしながら暮らしている。

彼は、ずっと前から7月23日に死ぬことを決めていたのだが、今日は22日。すなわち、自殺設定日の前日である。

彼は青春をともに過ごした友人に会いに行くのだが、皆かつてとは違っており、誰に会っても心を通わせることができない。

友人といてさえ孤独が消えず、むしろ虚無感にさいなまれた彼は、翌日7月23日に計画通りピストル自殺する。

以上があらすじである。


2.アル中のアランと充たされない愛について


ご覧の通りメランコリーな展開が続くため、ただ暗い映画だと思われるかもしれないが、いや確かにそうなのだが、これは同時に愛にまつわる話でもある。

私は、アランは絶望していたのではなく希求していたのだと思う。

かつて軍で過ごした輝かしい過去を忘れられず、その光の再来を待ってまって待ち続けて、酒をあおっているうちにアル中になったんだ。

そんな独りよがりな思いのために社会との繋がりを断つような真似をして、それほどに堅実な社会に相容れなくて、それでいて誰かに愛されたかったのではないだろうか。

だってこの世界に踏みとどまりたいと思っていなかったら、最後に友人に会いに行ったりしないのでは?

まだ誰かに愛されたい、誰かを愛したいと思ったのか、いや誰かを「愛せる」かどうかを試したかったのかもしれない。

きっとアランは、もう自分は死ぬんだと決めていても救いを求めてたんじゃないかなあ。

それで逆に、若さや派手な夢に執着している自分と友人たちとの距離に気づいて、
「ああ、やっぱり自分はもうダメなんだ」
と再確認してしまった。

アランは、アルコール依存症は克服できたけれど、心はもう同世代の人たちに追いつけなかったのだろう。

そして同世代に追いつくこともよしとできなかった。

でもそれって、ある意味正しく生きたからそうなるのではないだろうか。

人間の全てのライフステージでぶち当たる問題には、ある程度の諦めというか「解答欄を空白で提出する」みたいなことができる力が求められていて、でもそれができずに全てに答えを出そうとした人間が、アランであるように思う。



そんなふうに「正しく悩んだ」のがアランであって、かつ彼は

「愛されるより愛したかった男」

の末路をたどった人間でもあるように見える。

人を愛して、愛して、大切にして、色んなことをやってあげて、それでも見合った愛が与えられなかったとき、人は愛されたいという気持ちを怪物のように肥大させてしまう。

ある種の「愛されるより愛したい」タイプの人は、最後には傷ついて疲れてしまう。そういう類の愛には終わりが見えない。

ここまで読むと、アランはジゴロか何かのように見えるが、そんなことはない。むしろいたって細やかな人間であろうことが言葉のないシーンで示される。

自室に置いてあるたくさんの小物に触れるアランの手つき。

友人の幼い娘と隣同士で食事をしながら、彼女と顔を見合わせて浮かんだ笑顔。

あんなに優しくて太陽みたいな笑顔なのに…。

もう本当に、見ていて辛いのだ。


3.印象に残ったシーン


特に彼の孤独が示されるのは、圧巻のカフェのシーン。

依存症の治療でずっと飲んでいなかった酒を一気に煽って。

周りにはたくさん客がいるのに、アランだけ見事に居心地が悪そうに浮いている。

あんなにブルジョワみたいな小綺麗な格好で美男子なのに、どうしようもなく溶け込んでなかった。

そんで、雨のパリはいいね。あまり綺麗にも見えないけどそれがまたいい。



4.アランへの自己投影をやめられない私の話


というか自分の末路にしか見えない。最早「自分もこうなるのだろう」という悟りを開きつつある。

この映画を観たことがある人は、アランと自分を重ねてしまう人が結構多いと思う。みんなそうだよね!?

誰か私が30になった時にはくれぐれもピストルを持たせないでほしい。ほんとに


最後、心配したアランの友人が「明日は食事にいらっしゃいね」と必死に電話で言うのだけど、それじゃ足りないのだ。明日死ぬ男に、それでは足りなさすぎる。

ああいう人には、もう四六時中横にいて目を合わせておかないといけない。ただそばにいなければ。

言葉で引き止めても意味がないのだ。アランにはそれが必要だった。

本来、心の病を治すのは医者の領分であって、そこに引きずって行くのが周りの人ができる最大限のサポートだと思う。

でも、世の中にはそれをわかってても闇に落ちた人を助けずにいられない人がいる。

そういう人は、気づかないうちに自分の人生と心をダメにしてまでその人を救う。

結局自分が心を病むんだけど、でもどうしようもないことなのだ。



ここからは、すこし自分の話を。

数年前、私はそんな風に人を救ったことがある。自惚れてなければ、多分。

もうそこに至るまでで既に、人間関係や家庭環境のせいでひねくれまくっていたけど、そこに余計固定するためのネジを自分でぶち込んでしまったような感じだ。

すなわち、その人に四六時中目を合わせ続けたせいで、自分がその人のため息を吸い込んでしまった。

でもこの映画を見て、
「これきっと自分の末路なんだろうな」
と思うだけではなく、

「あの時あの人のために役立ってたんだったら、もういいや」
とも思えた。

この映画を観るまでは、相手のことを恨んでいました。

私が自分から相手の人生に踏み込んでいったくせに、

お前のせいで体調を崩したし人を信じられないんだよ

とその人の胸ぐら掴んで叫びたかった。

けどもう、その人の役に立てたんだったらもういいかって思えた。

それぐらい大事なことができたんじゃないだろうか。私の時間は戻らないけど。


5.出演俳優たち


それにしても、モーリス・ロネのインタビューを見ていて、本当にこの人は謙虚というか、真面目なんだろうなとしみじみ思った。ちょっとはにかんだ笑顔が素敵!

彼は実際撮影してたときにアル中だったという話をネットで見たが、どこに書いてたんだろうか。詳細は見つけられなかった。

もしそうならえぐいなあ。モーリス・ロネも、ルイ・マルもよくやるよ。

あとルイ・マルは本当にジャンヌ・モロー好きやなあ。今回、後で確認するまでジャンヌ・モローに気づかなかった。笑