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個性も社会性もない弱者がこの世界を渡っていくために。

人間社会というのは群れで生活することを基本として営まれている。現代は“個性”と呼ばれる個としてのオリジナリティーが尊重されてる時代といえるが、それでも社会の本質は変わっていない。

人間というのはこの“社会”というものに対していかに折り合いをつけ、うまくやっていくかに人生をかけ、そして願わくば愛する人々に囲まれて最期を迎えたいと考えている。

しかし、それは人間が人間であるがゆえの矛盾をはらんでいると言える。生物学的には、非力な人間は集団で群れて行動するのが理に適っている。自然界には、一人で生きていくには到底かなわない強敵があまりにも多すぎるからだ。

一方、人間は集団の中で「自分」という概念を見つけ出す、あるいは作り出すことに必死である。集団の中で均一化された能面のような存在であることに我慢ができず、自分は特別な存在であると信じ、それを証明したいと常に思っている。

集団でしか生きていくことができないのに 、“個人”というアイデンティティーをこしらえてまるで「個人」で生きているかのように振る舞う。

これは人間が人間であるがゆえの大きな矛盾だ。

他の動物に比べ、人間はあまりにも脳が発達しすぎた。世界を主観のみでなく、メタとして捉えることができるようになってから、私達は苦悩という進化の副産物を抱えるようになり、それをどうにか解決できないかと試行錯誤する人生を送ってきた。

そのうち哲学という画期的な学問を生み出すが、いかなる人類の叡智を持ってしてもこの問題に終止符が打たれることはなかった(実際に苦悩を克服したという人間は現れたが、それを証明する術はない)。

現代社会では昔に比べてストレスが多いと言われている。過去に生きたことがないからそれが本当かどうかはわからない。しかし、一生のうちに個人が得られる情報は天文学的に増えており、それは一つ一つが悩みのタネになりうると考えれば、あながち信じられない話でもない。

昔なら一生知らないで済んだであろうことが、否応なしに頭の中に入ってくる。テレビで金持ちの優雅な生活を見ては「自分はなんて貧乏なんだ」と嘆き、インスタでたくさんの友人に囲まれた美人を見つけては、「自分の人生はなんてつまらないんだ」と落ち込む。

かつてなら自分の人生の外にあったはずの物事が、毎日毎日苦悩の火種として人生の中に放り込まれてしまう。

現代社会では個性的であれと半ば強制的に迫ってくる。自分らしくあれ、と。それはしばらくの間新世代的な美しい価値観だと讃えられてきたが、果たして本当に人類にとって健やかな提案であったのだろうか。

自分らしくあるというのはある意味では才能である。人々は「飾らなくていいよ」と簡単に言うが、本当に飾らなくても社会で生きていける人などほんの一握りなはずだ。

大抵の人は「周りがこう言っているから」「親にこう育てられたから」「嫌われたくないから」と常に他人の動向に合わせて生きている。そのほうが自分らしく生きるよりも楽だし、無難に生きることができる。

だから、私は周囲の環境に依存して生きている人のことを批判する気にはなれない。誰だって何かしらを心の支えにして生きている。多くの人は、「社会でうまくやっていけている自分」を想像し、それを叶えようと願っている。

最初にも書いたが、人間というのは群れで行動することを基本として社会が形作られている。つまり、社会でうまくやれていれば、ある程度の苦悩とは折り合いをつけることができるし、前向きに、健全に生きていくことが可能になるのだ。

一方、飾らずに生きていくこともできなければ、周囲とうまくやれない人間というのも一定数存在する。その原因はさまざまだが、一度社会の歯車から外れてしまうと、再び組織の中に組み込まれるのは非常に難しくなる。

「社会でうまくやっていけている自分」を誇りに思っている人々にとって、そのような異分子はひどくストレスとなる。「なんでお前はうまくやれないんだ?」とイライラしてしまう。「自分は努力しているのに、なぜ頑張らないんだ?」と。

そういった苛立ちは集団の中に蔓延し、いつしかイジメや村八分という形で顕現されることになる。その対象になった者はさらに集団から孤立し、ますます厄介者らしい立ち振舞いになってしまう。

この場合、強い自我を持ち自分なりの哲学を持つ者はアーティストやカリスマ性を持つ人間へと変貌することがある。著名なミュージシャンや画家、詩人などは過去に周囲と折り合いがつかなかったという人が数多く存在する。

しかし、強い自我ももたず、自分なりの哲学も持たない者は自分という存在を否定し続け、現実逃避し、人生の意義や喜びを失い、やがては心身ともに衰弱していくこととなる。これは非常に不幸な人生と言える。

私自身、まさにこの弱者的存在であり、今日まで苦悩にまみれて生きてきた。これまで、私は集団の輪に加わろうと必死だった。「社会でうまくやっていけている自分」をどうにか掴もうとあがきもがいて、一層苦しくなる一方だった。

自分のような弱い人間が幸福に生きるにはどうしたらいいのだろうか。私は人生の大半をこの問いに捧げ、いまだに解決することができていない。

弱者は、見方を変えれば強者の餌になるという点ではある意味価値のある存在であると言える。しかし、それではあまりにも悲惨ではないか。

私は願う。胸を張って生きられる人生が送れるように。嘘をつかず、自分で自分のことを誇れる人間になれるように。

これまで私は変化を嫌って生活してきた。自分が傷ついて立ち直れなくなることが怖かったからだ。だが、それでは新しいきっかけに出会うこともないし、痛みを伴わなければ生きている実感すら感じることができない。

私は痛みを受け入れられるようになりたい。自分の状況を好転させるために、あえて自らを変化の中に突き落とし、失敗に失敗を重ね、その中で本当の自分というものを見つけ出したい。

あえてリスクを取る人生を送る。そのぐらいしか、弱者に残された幸福への道はないのかもしれない。


大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。