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『シャイニー・タイニー・ドロップス 2』

※BL小説


 冬になって、ついに第一志望の大学の試験が終わった。
 俺は開放的な気分に浸りながら、三木さんのマンションのベッドに寝ころんでいた。後は合格発表を待つばかりだ。
「もう風邪ひこうが何しようが全然構わないんだー。当分勉強のことは忘れる。ねえ、どこか遊びに行こう?」
 シーツの上でゴロゴロ転がりながら、どこかに連れて行ってくれとねだってみた。三木さんのベッドは三木さんのいい匂いがして、横になっていると包み込まれるようでとても気分が良い。
 このままお泊まりしてみたいな、と思っていた。

 てっきりいつものように優しく微笑んでくれると思ったのに、ベッドサイドに立った三木さんは、困ったような、真剣なような、見たことのない顔をしていた。
「もう受験勉強は終わったんだから、お友達と好きなところに行って遊んだらいいよ」
「えっ……、俺は三木さんと遊びに行きたい……」
 だんだん声が小さくなる。だって、きっといいよと言ってくれると思っていたから、こんな反応は予測していなかったのだ。
 ふいに、三木さんが俺の受験が終わるまでと思って、迷惑なのを我慢してくれていたのかも知れないと思い至った。
 そう思いついたら、足元が地面にめり込んでしまいそうなぐらいずしんと気分が沈んでいく。
「……もしかして、ずっと迷惑だった?」
 そんなはずないよ、と言って欲しかった。
 それなのに、三木さんはますます困ったような微妙な表情を浮かべている。
 決定的だ。
 どうして相手の気持ちに今の今まで気付かなかったのだろう。いつから疎まれていたのだろう。懐いてくる受験期の子供を邪険にもできずに、心の中では酷く困惑していたのだろうか。
 優しい時間が流れていると思っていた夜の静寂も、三木さんには迷惑以外の何ものでもなかったのだ。仕事で疲れた身体を休めたくても、優しい三木さんはそうとは言えずに、なかなか帰ってくれない俺を持て余して途方に暮れていたのかも知れない。
 それなのに、俺は平気で三木さんの作ってくれた料理を食べ、当たり前のように送ってもらっていた。親にも見せたことがないような甘えた態度も見せていた。俺は自分が恥ずかしくてたまらなくなった。

 俺は三木さんと一緒にいたくて、一緒にいると気持ちが良くて心がほかほかして、足が少し地面から浮き上がったような感じがして、少しでも側にいたいとそれしか考えていなかった。相手からも年の若い友人として好かれていると、大事に気に掛けてくれていると信じていた。だから平気で甘えることもできていたのだ。
「ごめん、俺、散々甘えちゃって。だよね。俺なんかといても三木さんには何のメリットもないし。迷惑もいいとこだったんだ。……そうだよな。俺なんか、三木さんから見たらガキだもんな」
 泣きそうだった。喉がひくひくしたけど、泣いたらもっと迷惑だと思うから、必死で泣くのを堪える。
「そう、君はまだ子供だから……僕は困ってしまうんだ」
 そっと静かに置かれた言葉が、心の中の小さな泉に投下される。みるみる沈んでいったそれは、ことりと音を立てて、深い深い一番底の底に着いた。
 胸に感じていた鈍い痛みが、激痛へと変わる。
 もう、ここにはいられない。
「ごめん、帰る」
 三木さんが何か言っているのが背中で聞こえたような気がしたけれど、少しでも早く、遠くに逃げたくて、俺はコートをつかんでマンションを飛び出した。
 どんどん走って、駅の側まで来てから息が切れて、俺は立ち止まった。
 恐れていたとおり、三木さんは追ってきてはくれなかった。
 
 泣いて泣いて、泣き疲れて眠る日が幾夜も続いた。来る日も来る日も、考えるのは三木さんのことばかり。
 ひたすら考え続けるうちに、こんなに一人の人のことで頭をいっぱいにして胸が潰れるような思いをするなんて、何かに似ているなと気がついた。
 似ている。失恋に。
 そこまで考えて、やっと俺は自分が三木さんに恋をしていたんだと悟った。自分が男に恋をするなんて考えられないと思っていたけど、そうなんだ。
 気がつけばさらに惨めさは加速した。疎んじられていたことを知った後で、驚くほど深みに堕ちていた自分の恋心に気がつくなんて、どこまで自分はバカなんだろう。

 一つだけ、胸に食い込む思いがあった。
 これまでのパッと燃えてパッと散った淡い恋と、これは全然違う。
 今まで恋だと思っていたもののどれ一つとして、三木さんへのこの想いほど、胸が焼け落ちるような痛みを俺にもたらしたものはない。
 三木さん以外誰一人、煮えたぎる油を無理矢理に飲ませられたほどの苦しみと、思い出すだけで胸が引きちぎれてしまいそうな思い出の喜びを、同時に俺に与えた人はない。

 この苦痛をどうしたら軽くできるのか、叔父に相談してみようかと思った。でも、三木さんは叔父のことを好きだった、かも知れない。いや、今も現在進行形で好きなのかも。もしかしたら、「毬江さん」の甥だから俺を構ってくれていた可能性もある。
 三木さんは男を恋愛対象にする人だけど、俺は対象外だったらしい。
 俺とは段違いに魅力的であるはずの叔父に、告白前に失恋した恋の相談をするのはもっと惨めになるような気がして、俺は結局、誰にも言わずに一人で布団を被って泣くことを選んだ。


 第一志望の合格発表の日。俺は掲示板の前で自分の受験番号を探していた。
 何日も何週間も泣き暮らした後には、鈍い無感覚がやってきた。頭がすかすかになったようで、あんなに憧れていたキャンパスさえ、魅力を失って感じられる。
 見なければならないから見る、という人ごとみたいな感覚で小さな数字を眺めていたからか、何度も自分の番号付近を素通りしてしまってちゃんと確認できない。
「雫くん」
 俺は耳を疑った。忘れるはずがないその声。
 ロングコートにロイヤルブルーのマフラー姿の三木さんを見ても、現実味がない。あんまり長いこと彼のことばかり考えていたから、幻覚でも見ているんじゃないか。
 ハンサムな顔を呆然と眺めていると、
「貸してごらん」
 三木さんが俺の持っている受験票を取って番号を確認し、素早く掲示板に目を走らせ始めた。
「あった! あったよ、雫くん! ほら、1357」
 三木さんが指さす場所を、俺も見た。
 1350……1352……。確かにあった。1357。
「やったな! おめでとう!」
「……何でいるの」
 俺は第一志望に受かったことと、思いがけずに三木さんとこんな場所で再会できたことで、完全に頭に血が上って、ほとんど逆上し掛けていた。
 受験票を持っている三木さんの、手袋をしていない手をいきなりつかんだら、はっとするほど冷たかった
「三木さん、いつからここにいるの。会社は」
「雫くんの合格発表の日だと思ったら、居ても立ってもいられなくなってしまってね」
 三木さんはちょっと気まずそうに苦笑した。
 名前の付けられないごちゃごちゃの感情が、暴風雨になって、すぐに俺の胸の中には収まりきれなくなった。
 それこそガキみたいに、俺は大きな声を上げて泣き始めた。

 入学手続きの間も、帰路のタクシーの中でも、俺は泣き続けていた。三木さんは黙って俺の肩を抱いていた。温かい掌の感触が俺を一層泣かせる。
 運転手はバックミラー越しに、泣いている俺と三木さんを不審そうに交互に見比べていた。
「大丈夫かい、兄ちゃん」
「だっ……じょぶっ……ごーかっ……はっぴょ……」
 俺は酷く泣きじゃくっていて、ちゃんと言葉にできなかった。
「ああ」
 バックミラーに映った運転手が、合点がいったように気の毒そうな顔をした。
「あんまり気を落としなさんな。あの大学だけが人生じゃないよ」
 どうやら受験に失敗して泣いていると思われたようだ。

 三木さんのマンションに着くと、こんな状態ではもう登校できないだろうと、三木さんが俺の携帯から、高校の担任に合格の報告と今日は休むという連絡を入れてくれた。
 それが終わると、三木さんはコートを脱いでクローゼットにしまい、ソファの俺の隣りに座った。
「会社、は……?」
 まだ時々しゃくり上げながら、俺は聞いた。こんなにも盛大に迷惑をかけてしまった。また疎ましがられるんじゃないかと思うと、怖くてたまらない。
「一日有給休暇をとってあるから大丈夫だよ。それより、雫くんがこんなに泣いたのは、僕のせいなんだろうね。前に酷い別れ方をしたまま、連絡もしないでいて済まなかった。君がここまで傷ついているなんて、思わなかったんだ。君を傷つけることを一番恐れていたというのに、僕は何をやっているんだろうな」

 不可思議な言葉に、俺は泣きすぎて腫れてしまった顔を上げた。
「俺のこと、迷惑だって思ってるんじゃないの」
「そんな風に思ったことはなかったよ。僕はいつだって、雫くんといるのがとても楽しかった。だけど、あの日君が飛び出して行ってしまってから、これがいい機会なんだと思った。君はこれから大学生になる。沢山気の合う仲間もできる。このまま君の暮らしの中から、消えようと思った。それが君のためには一番いいと思った。それなのに、今日あの会場に君が来るんだと思ったら、顔だけでも見たくて、どうしても我慢することができなかった」
「何でそんな風に思うんだよ。俺はまた会えなくなるなんてやだよ。俺、三木さんが」
 そこで俺はひくっと大きくしゃくりあげた。
「三木さんが好きなんだよっ。俺なんか恋愛の対象外なのは分かってるけどさ。俺のこと、心の中から閉め出さないでよ。もう我が儘言わないから。気が向いたときに、ほんのたまに会ってくれれば……それもダメなのかよ」
「待ちなさい、君はゲイじゃないだろう」
「でも好きになっちゃったんだよっ」
 何を言ってもダメなのだと思った。今、俺のすぐ隣りにこの人は座っているけど、俺とこの人の距離は永遠に縮まらないのだ。扉は最初から閉まっていて、恋愛という意味では、俺は最初からスタートラインにさえ立たせてもらえないのだ。

 俯いていると、三木さんが俺の身体を引き寄せて抱きしめた。
 初めて抱擁されて、俺はわけが分からなくなった。かあっと耳たぶが火照り、身体が触れている場所がどきどきと脈を打ち始める。
「僕は、君が好きだ。最初から好きだった。本屋で君に会ったとき、馴染みの店で仄かにいいなと思っていた子が、実は高校生だと知って酷く驚いたけど、『marie』で働いていたから君もゲイだと思っていた。君が大人になったら、もしかしたらいつかは僕のことを好きになってくれるかも知れないと期待はしたよ。だけど、一緒にいるうちに君がストレートだと分かって、その時にはもう僕は手遅れなぐらいに君に恋をしてしまっていた。君といるのは幸せと苦しみを同時に味わうことだった。無防備にベッドに横たわっている君を見てしまったあの日、僕は追い詰められて、もうどうしようもない気分だった。このままではきっと君に触れてしまうと、そう思ったから」

 三木さんが、俺を好きだって。
 ……俺を、好きだって。
 頭が真っ白になる。
 言葉が浸透するまでに、しばらくかかった。やがて言葉の意味が実感を伴って頭の中に沁みてくると、合格発表を聞いたときより何百倍も眩しいものが、俺の内側からせり上がってきた。
「触れてくれてもよかったのに」
 思わずそう言ってしまってから、誘うようなことを言っている自分が信じられなくて、そのはしたなさに目眩がした。
 そっと顎をとられ、小鳥の羽ばたきみたいなものが唇を掠めていく。
 それは俺が知っているどのキスよりも淡いキスだったのに、爪の先までじんと痺れた。そのまま再び胸に抱かれて気がついたのは、俺を抱きしめている三木さんが細かく震えているということだった。

「三木さん、震えてるの?」
「ああ。怖いんだ。僕と関わらない方が君はきっと楽に生きていける。僕といることで、君の未来が損なわれてしまうかも知れない。そう思うのに、君を離すことができない。君を僕のものにしてしまって、本当にいいんだろうか。君が払う犠牲に相応しいほどの幸せを、僕は君にあげられるんだろうか」
「今、もらってる」
 口に出してみて、自分の声が揺れていたから、俺自身も酷く震えているんだと知った。
「三木さんといられるなら、どんなことだって犠牲だなんて思うはずない。三木さんはたった今、俺をもの凄く幸せにしてる」


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