見出し画像

他人に賭けたり祈ったりできない

大人になって、経験からそれなりの社会性を身につけたことで、「信頼」や「安心感」で誰かと関係性を築けるようになってきた。負の感情でしか誰かと親密になれなかった時期を越えたことは嬉しい反面、穏やかな疎外感を感じる。わたしが「たまに落ち込んだりしながら、明るく前を向いて生きる」みたいな人間になったら、それはもう嘘なんですよね。「何が」かはわからない。でもそれって少なくとも、今までの十数年のわたしとは違う生きものだと思う。あの頃の、突き抜けていた若さゆえの衝動とか、視えていたものとか感じていたこととか。社会性と引き換えにそういうのを完全に失っていくような。あれって10代特有のものだったのかもしれない。失うことは必然で、成長で、正しいことかもしれないけど、あの頃の、間違っていることを自力で一瞬だけ「本物」にした瞬間を今でも愛しているから。だからわたしは今でも、正しさに全く興味がない。


ねえ。他人が見せてくれる良い部分を根拠に判断するのってめちゃくちゃ怖くないですか?「優しい人が好き」って言う女の子も、「優しい」を理由に人を選んだりしない。優しいだけで選ばれることって無いんです。わたしはその傾向が少し強いのかもいれない。どちらかというと、「負」の部分が魅力的に見えた相手に惹かれるんだよね。普通なら(他人が聞けば)「それってどうなのよ」となるような部分もなぜか受け入れてしまう相手に。善は裏切るけど悪ってだいたい裏切らない。欠点さえ魅力に思えるなら、好き以前に、もう「何一つ嫌えない」ということだから。(変な男に引っかかると言われる所以かもしれませんが、わたしもこの通り変な女なのでおあいこです。)

それから、そうやって惹かれてからやっと、綺麗な景色や絵画を見たその人が、どんな反応をするのか知りたくなる。何を綺麗と思うのか知りたい。美談も嫌悪も教えてほしい。わたしはそういうのを曝け出してくれるひとにも弱いです。



「わたしたちは、“”理解し合っている“”という事実に胡坐をかいていたんだね」という話をした翌日、別の人間からは「あなたのこと全然理解できない」という話をされた。こうも誠実な人間ばかり周りにいてありがたいな~なんて思っていたら、これまた別の人間から「お前って人当たりは良いけど誰のことも信用してないよね、用心深いね」と言われた。これを私はまだ根に持っています。図星だからではない。普段誰よりもコミュニケーションを軽んじるくせに、そういうことだけ言語化する、その卑怯さに腹が立ったんですよ。


「あなたの考えていること、これっぽっちも理解できません!」と言うだけ言って消えていくのは、一番簡単な逃げ。人は理解できないものなのだ。理解できないことを理解できないまま、楽しんで、ぶつかっていくしかない。勝手に理解した気になって、胡坐をかいて歪ませてしまったら、目の前の人はいつの間にか、全く違う偶像になる。それってもう芸能人とファンの関係性だから。目の前の人を目の前の人のまま好きでいるためには、理解できなさを理解するしかない。そうして関係を続けていくことだって誠実さと呼べるはずだよね。

芸能人とファンの関係って、つまり「推す」ということなんだけど、 (「ガチ恋」とも最近は聞く) 、私には無縁です。でも、「推し」がいる友だちの、楽しそうで苦しそうな様子を見ていると、恋愛と似ているのかもしれないね。自分ではどうしようもないものに期待して、1人で勝手にとち狂っているという点で。


今のところ、わたしは他人に賭けたり祈ったりできない。だけど今後一度くらいは、推しを見つけて酔ってみたい。だって寿命まで生きるとしたらまだ長い人生、ずっとシラフでいるのはあまりにも退屈でしょうし。最悪の部分を見せてくれるひとが、表舞台のどこかにいますように.…。

                             おしまい。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?