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「まちづくり」という言葉は魔界である。~ドラえもんを見て思ったこと~

ドラえもんは難しい。


先日、息子と映画版ドラえもん魔界大冒険のシナリオについて、言い合いになった。彼は、「ドラえもんが故障して22世紀に帰って、ドラミちゃんが来るんだよ」という。
いや、そんなはずはない。
魔界大冒険といえば、大長編ドラえもんの中でもそのストーリー構成含めて秀作である。当方は何十回と読破した。映画も当然見ている。いまだに学校の先生がロープの上に乗って台風対策の屋根修理をしながら「剛田も骨川も成績が‥」と述べるシーンまで覚えている。
知らない方のために簡単に説明すると、ある日魔法に興味を持ったのび太、いつも通り「魔法なんてあるわけないよな」と思いながら出木杉の家の前に行くと、当然ながら出木杉君と会う。出木杉君に「こんなこと聞くのも変だけど、魔法ってあるの?」と。
出木杉君は「魔法はきちんと研究されていたんだよ。」と小学生とは思えない博学さで、錬金術の研究や中世の魔女狩りについて熱く語る。
で、短絡的なのび太君はじゃぁ、もしもボックスで魔法のある世界を作ってしまえば良いのでは!と考え、ドラえもんと実行(ここで22世紀からセワシ絶対的な信頼のもと派遣されているドラえもんが、安易に乗っかってはいけないのだが、、、)して、まぁ大変なことになりますわなぁ、というお話。
この話の秀逸なところは、前段階での伏線(謎の石像)が張られていて、あとからそこが繋がっていくのと、「パラレルワールド?なんだいそれ?」というところで、小学生にとって初見な魅力ワード「パラレルワールド」を知るところにある。(いや、もちろんそれ以外にもいろいろある。大長編のなかでも、そのシナリオライティングは秀逸と思う。)

当方が知っている魔界大冒険は、まぁそんな話なわけだが、おおよそドラえもんが22世紀に帰っているような時間的余裕はなかったはず。石ころ帽子とか星がたくさんついた帽子とか、あべこべクリームとかそんな道具を駆使しまくる大冒険で、ドラえもんなしには成立しえない。

リメイク版の存在

ここでやっかいなのが、リメイク版の存在である。
そう、彼と私では見ている作品のベースが違うのだ。
しらべてみると、2007年の映画は「新魔界大冒険」と今はやりの(漢字は異なるが)”シン”である。
となるとあれか。エヴァと同じように旧作と新作では登場キャラ自体が異なっているのか。当方、エヴァもそうだが、旧作は完結編を映画館で鑑賞しているが、新作のほうは一作目しか見ていない。最近(といっても数年前か??)の新作についてはほとんど話題にも乗れていない。エヴァの新作版で盛り上がっている人たちには、最後の「気持ち悪」の意味なんて分からないだろう、いやきっと。
そう、同じ世界を体現しているようで、まったく次元が違うのだ。ドラえもんもきっとそうなんだろうと勝手ながら思うことにする。

共通項が生み出す対立


中途半端な共通項というのはかえってややこしい対立を生みかねない。
お互い、これが正しいと思っているし、その背景にあるものは共通理解の世界なのだから。
”世界平和を希求する”、”地域の安定を期待する”、”地方創生で産業活性化しよう”、”美しいまちづくりを実現しよう”、みんな共通理解の世界であっても、その見え方が違うだけで、そのキーワードが却って対立の種になるのだ。

まちづくりという言葉は魔界だ

そう、”まちづくり”という言葉は魔界である。
だれしもが、”良いまちづくり”といえば、反対することはない。ある種共通理解のキーワードのように語られる。しかし、その中にある言語の本質的理解は、各人によって全く異なるマジカルワードである。
地方で仕事をするときは特に気を付けたほうが良い。”まちづくり”という言葉はあまりにも危険すぎるのだ。それが、”ドラえもんが必死に道具を繰り出すのか”、”一旦、故障して22世紀に帰って代わりに妹が来るのか?”(今でも私は疑っているが・・・)きちんと確認したほうが良い。

と言いながら、それを社名に付けて悦に浸っている私も、すでに魔界の住人である。
(自分でも何言っているのか良く分かりませんが、皆さま良い週末を!)


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