見出し画像

親しみやすいといわれる女性が男性社会で困ったこと

 他人から親しみやすい印象を持たれる人間がいる。私はそんな印象の人間であるようで、引きこもりのオタクであるにもかかわらず、たまの外出で、老婦人から道を尋ねられ、外国人には電車のルート案内を頼まれ、子連れの母親には時間を確認される、といった具合だ。
 親しみやすいというのを悪く言えば、なめられやすいとも言う。電車で痴漢にあったり、道端で通り魔的に身体を触られたりしたこともあった。
 何事も良い側面と悪い側面があるものだ。だが、どちらかと言えば、良い側面の方を多く享受してきたんじゃないかと思う。この記事では、そんな自意識をもった私が、気づいたことを書きたいと思う。


親しみやすいということ

 『金の国 水の国』という漫画に、数々の感動的なエピソードをさしおいて、やけに印象に残る台詞があった。ヒロインであるA国の末の王女サーラが、長らく敵対しているB国の婿を迎える直前に、ばあやと話す場面だ。

サーラ「……私はお父様や政敵から疎まれたこともきらびやかなお姉様たちに嫉妬されたことも一度もありません」「どのような方が来られても大概うまくやっていけるわ」

ばあや「そんなの姫様がおっとりしすぎて誰の脅威にもならないからですよ」

岩本ナオ『金の国 水の国』P.6‐7

 「誰の脅威にもならない」という台詞を目にしたとき、なるほどと思ったのをよく覚えている。
 サーラは美人ではないが、心根の優しい穏やかな女性で、『源氏物語』で言えば、花散里の君のようなヒロイン像だろうか。けして、私はヒロインの器ではないが、「誰の脅威にもならない」という点で、サーラと一致している。
 女性で黒髪、童顔、ノーメイク、低身長、高すぎずかつ軽んじられない程度の学歴。私を表面的に表す要素は、大多数の人に威圧を与えるものでなく、危険性を感じさせないだろう。
 家庭以外の人間関係で、直接的に嫌なことをされた記憶がないし、引きこもる以前に、わずかながら社会へ出たときも、やっかまれたことはない。無害な人だとみなされ、得をする場面があったのだろうと推測する。

男性社会のとある話

特別視されるということ

 数年前、とある技術職についていた私は、男性社会で生きていた。産休実績がほぼない会社で、はっきり言って良くないことであるが、独身で結婚願望がないので、個人の事情としては困らなかった。労働条件上の不安は、残業代が固定なことくらいだった。女性が珍しいというだけで歓迎され、親切にされていたと思う。
 同時に女性であるということだけで、特別視される不都合もあった。学生の時は男女共学だったが、思春期の頃からの経験則として、20人くらいの未婚の男性と出会うと、そのうちの数人が何となく好意的な態度を見せてきて、その中の1人が積極的なアプローチを仕掛けてくるような感じだ。男性社会に所属すると、必然的に出会いが増えるので、アプローチが増える。デミロマンティックで、滅多に恋愛モードになれない私にとって、それは歓迎できる状況ではなかったし、仕事はしづらく、居心地が悪かった。

ドキッとした言葉

 ある日の仕事場面で、ドキッとしたことがある。恋愛的な意味ではなく、だ。
「もう~、女の子だからって笑ってごまかして〜」
  仕事でちょっとしたミスをして、困ってしまって笑顔を向けたら、同僚のおじいさんに、そう言われ、ドキッとしてしまったのだ。
 笑ったのは自分自身に呆れる様な気持ちで、反射的な反応だったが、それが許される空気感だとしても、多少不真面目な対応であったことは否めない。良くはなかったとは思う。
  しかし、「女の子だから」ごまかしが効くと思った訳ではなかった。人から反感を買わないようにする行動は、私の脊髄反射的な癖のようなものであり、 “女”を使う、使っているという自意識は、その時初めて芽吹いた。
 私の中で、 “女”を使う女性というのは、峰不二子のような女性であり、自分の魅力に自覚的かつ自己プロデュース力の強い美人のことで、私自身とはかけ離れた存在だと思いこんでいたのだ。

家庭の影響

  思えば、自己の無害性を示すことで、安全を確保するという生存戦略を、私は両親との生活の中で、ずっとやってきた。父がいわゆるモラハラをする人で、父の機嫌を損ねると、ハラスメントの対象になったからだ。
 だから、父の言うことは良く聞いて理解に努め、父の能力に勝ろうとするような生意気な言動は、年齢が上がるにつれて出来なくなった。まわりが褒めてくれる自分の長所よりも、父が責める欠点の方が気になる日々だ。
 自分が父の理解者である=父にとって無害で可愛い娘であるという振る舞いをする。一方、私のように振る舞えなかった母は、父に馬鹿にされ続け、父の癇癪の対象になっていった。 正しさを考慮せず、ただただ強い方に従うことは卑怯であるが、母のようにハラスメントの標的になりたくなかったのだ。

人間の加害性

 ジェンダーの問題を論じる場面で、男性の加害性という言葉が出てくることがある。
 女性が男性から加害を受けることは、おそらくは男性が想像しているよりも多く、基本的に、男性の体は女性より大きく、力は強く、動作は大きい。よって、男性であるというだけで、警戒の対象たりうるという議論だ。
  対して、大多数の男性は、犯罪をしない普通の人であるのだから、性別を理由に一方的に警戒されるなんて心外だという主張もある。この議論において、一般男性が敵視すべき相手は、男性を警戒する女性ではなく、加害行為をする男性であるということで、一先ずの結論は出ているように思う。
 また、男性同士のコミュニティにおいて、望ましくない男らしさを強要することなど、ホモソーシャルにおける偏った価値観を強化していくようなことも、男性の加害性と言われるようだ。
 これらの男性の加害性について、特にX(Twitter)では、対立構造が生まれやすく、トゲトゲしい主張がそれなりに見られる。男性がもつのが加害性であるならば、女性は被害性をもつのだろうか。よく分からない。一つ確かに思うこととして、どんな人間にでも攻撃性はあり、それを表出させるか否かの違いでしかないのだろう。

消しゴムを拾ってもらえるくらいの好感度

 かつての私は、自身の女性という属性に無頓着であった。それもまた形を変えた加害性であろうか。男性だから乱暴な対応をされるだとか、高学歴であったり、愛想を振らないクールな女性が、陰口をたたかれるという話を聞く。面と向かって苦情を言われたことはないが、そのような人たちからしたら、女性であるというだけで親切にされる存在は、ずるく見えるのかもしれない。
 女性として朗らかに振る舞うことを望まれ、そう振る舞うだけで、媚びを売ったことになる。現状、女性が社会で生きていくと言うことは、そういう側面があるのだろうと思う。
 加えて、職務上の付き合いでしかない相手に、アプローチを受けないように、もっと慎重になるべきだったのかもしれない。
 ネトゲでいうこところのエネミーにタゲられない(ターゲットにされない)ように、ヘイト管理に努めるのではなく、恋愛シミュレーションゲームのような好感度管理の方が重要だった可能性がある。
 しかし、恋愛シミュレーションゲームは、複数人の好感度を同時にあげたとしても、クリア前の最終日に、告白したい相手以外を放置しても大丈夫だが、現実はゲームと違って続くので、そうはいかないだろう。本当に好きな相手以外の好感度を上げすぎては、無用なトラブルを招く。消しゴムを落としたら拾ってもらえるくらいの好感度を保つべきだ。単行本が手元にないので、引用をさけるが、『斉木楠雄のΨ難』という漫画の主人公斉木が、確かそんなことを言っていた。
 そうは言っても、斉木は主人公属性であるので、様々な事件に巻き込まれているような気がするが、私は主人公ではないので多分大丈夫なはず。どんなに気をつけても勘違いする相手は、もうどうしようもない。それは私の問題ではない。ただ、少しでも生きやすくなるように、次に社会と関わりをもつ時は、消しゴムを落としたら拾ってもらえるくらいの好感度を目指そうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?