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創作大賞応募:弾ける海で泳ぎたい

【1】私はきっと沈んでしまう

気づくと、コップの中身は空になっていた。
最後に飲み干してから、
どれくらい時間が経つのだろう。

智子(さとこ)は、気だるそうにドリンクバーに向かう。

カラン、と音を立てながら
氷を3つ、コップに入れて、
カロリーゼロのコーラのボタンを押す。

しゅわしゅわ、と音をたてて注がれたコーラが止まると、コップを手にして席にもどった。

ぶくぶくぶくぶく......

喉が乾いていたので、すぐに飲みたい気分だったのに、なぜかストローで息を吹いて音と波を立ててみる。

コーラの中で泳げたらいいな。

そんなことを考えるくらい、暇だった。
でも、実際には、かなり切羽詰まっていた。

仕事がなかなか決まらないのだ。

その上、毎月仕送りしてくれている両親からは

「仕送りは来月まで」

と最後通告を受ける。

智子は、高望みなんてしていない。

バイト/パートの時給制のあらゆる業種も受けているし、
派遣にも何社か登録している。

正確に言うと、【受からない】わけではない。
【受かっても長続きしない】のだ。

正社員として入社しても、試用期間中に終わってしまう。

アルバイトでも、トレーニング期間を過ぎて無事働けたことがない。

「あ、なんか私、
この仕事向いてないかも......」

智子は必ずそう思ってしまうのだ。

そんな私はダメ人間。

自分自身でも、薄々気づいてはいたけれど
大学や昔からの友人たちと会うと、心の底からそう思うようになっていた。

また、友人たちの中でも そんな智子をたしなめる者もいた。

「あんたさ、マジでヤバイって」

「ほぼ無職になって何年経つのよ?」

「もうさ、この際 永久就職(けっこん)して落ち着けば?」

そういう友人たちは、今や様々な業種で活躍している。

新たにステップアップをしようと、
転職したり、資格を取ったり。

智子には付いていけない話題で
友人たちはいつも盛り上がっていた。

こんな私はコーラの海でも、普通のプールでも、
きっとうまく泳げずに沈んでしまうかも。

沈んでいくまま、浮き上がれないかも。

智子はそんな風に思いながら、コーラを一口だけ口にした。

「智子、お待たせ」

ぼーっとしていると、会社帰りの和也が智子の席にやって来た。

「お疲れ、和也」

「おう。
このコーラ、ひとくち、もらうな」

和也は、かなり喉が乾いていたのか、
少し気の抜けたコーラを一気飲みした。

「腹減ったろ?とりあえず出るか」

「うん」

智子は席から鞄とコートを掴んだ。

トレイを下げてくれた和也に追い付いて
腕に手を絡めて、ファミレスを出て歩く。

心地よい和也の温もりを感じて歩く。

このまま時が止まればいいのに、と智子は思う。

和也と一緒にいられたら、それでいい。

「智子、やっぱりあそこ行くか?」

「うん、行きたい! 」

和也は大学時代の1年先輩だ。

大学の頃からの付き合いなので、8年ほどの年月が経つ。

先に就職した和也からは、智子は一歩どころか何歩も何十歩も遅れてしまった。

未だに職も決まらず、職にもついておらず。

けれど、和也は、いつも智子を責めなかった。

「いつか、智子が本当に働きたいと
思える場所で働けばいいんだよ」

そんな和也を甘すぎる、という友人たちもいた。

でも、それは嘘偽りない和也の本心だった。

「ここ来ると落ち着くんだよな」

二人は学生時代からの馴染みである
定食屋いとう に来た。

昼は安くて美味しい定食。
夜は定食もしているが、メインは居酒屋だ。

和也と一緒の時はかなりの確率で来るほど
二人ともお気に入りの場所だった。

「あら、二人ともいらっしゃい。
ゆっくりしていってね。」

おかみの有美(ゆみ)さんが、にこやかに二人を出迎える。

いくつかおつまみを頼んで、生ビールで乾杯した。

「ああー! うまい!生き返るよな! 」

「美味しい! 」

料理とお酒に舌鼓をうちながら、ふと智子がつぶやく。

「和也、私マジで働かないといけなくなった」

「えっ、どうしたんだよ? 」

「親がいい加減怒っちゃってさ。
仕送り、来月で終わりだって......」

「えー、マジか......」

「うん......」

智子の職が長続きしないという状況になってから、
情けないことだが、智子は親から仕送りを受けていた。

これまで、どれほど職が長続きしなくても独り暮らしをしてこられたのは、
その仕送りのおかげだったのだ。

実家に居座る気もなかった智子にとって、
独り暮らしはまさに天国だった。

けれど、仕送りが絶たれたら 必然的に天国からも追放されてしまう。

けれど、和也も、そんな智子に簡単に
「だったら俺の家に来いよ」
とは言わない。

そういうところが、和也を好きな理由でもある。

智子の今の状況で同棲なんて。

恐らく、和也もそう考えていたはずだ。

地に足がついていて、浮ついていない。
そんな和也が好きなのだ。

「そろそろほんとにヤバイね、私」

「うーん......でもさ、
慌てても逆効果だと思うけどな」

「それもそうか......」

「うん、絶対、慌てて やけになるなよ?」

相変わらず和也は優しい。

「うん、でもさ 和也」

「うん?」

「私、ダメ人間じゃない?だから......」

「ほら、また、そういうことを言う」

和也は真正面から、智子の鼻をつまむ。

「ダメ人間なんて、自分で言うな」

「でも」

「でもじゃない」

また智子は鼻を摘ままれる。

「智子、ゆっくり探そう、な」

そう言うと、和也は笑顔で店員さんに
生ビールのおかわりを注文した。

【2】 温かな一歩

「はい、湯豆腐おまたせ」

有美さんが甲斐甲斐しく
湯豆腐と器をテーブルに置いた。

「ねぇ、ちょっと。
二人とも食べながらでいいから
聞いて欲しいんだけどさ」

気づくと、有美さんは器に注がれた日本酒に口をつけ、ゴクゴクと飲んだ。

「智子ちゃん、仕事もう決まった? 」

「いえ、まだまだ......
でも、まじでもう決めないといけなくて」

「あら、そうなの?
実はね。ちょうどこれから、求人出すっていう知り合いがいるのよ」

「へえ、マジっすか! いいタイミングだな」

気づけば、智子より和也が、前のめりで話を聞いている。

「どんなお仕事なんですか?」

「うん、それがね、家族で便利屋を営んでるの」

「便利屋?」

「うん、あのねぇ......なんていうのか、
依頼受けたことは何でもやります、っていう仕事らしいんだけど」

便利屋......
何でもやります......?
智子の頭中でクエスチョンマークが飛びまくっていた。

「でも大抵は、お買い物を頼まれる、とか
そういう小さな依頼が多いみたいよ」

有美さんは煙草に火をつけながら説明を続けた。

「内勤でも、実務でも、どちらでも求人出すみたい。
住み込みも歓迎みたいなのよね。
よかったら智子ちゃん受けてみたら?」

有美さんは 智子に問いかける。

「有美さん、待遇とか給与とかは......」

和也が尋ねるのを遮るかのように、智子は突然、有美さんに告げた。

「......そこ、受けます、面接受けます! 」

智子は顔が火照っていた。
お酒のせいではなく、それだけ熱がこもっていたのだ。

「有美さん、私、仕事したい。
続くかわからないけど、でも、私、私......このままじゃ嫌だ......」

有美さんはすっと智子を抱き締めていた。
智子は泣いていたのだ。

「うん、わかった。
智子ちゃんの気持ちは受け取ったよ。
あとで先方には伝えておくから」

有美さんは智子の頭をポンポンと撫でた。

和也も、その様子をずっとニコニコと眺めていた。

その後、有美さんを通じて
トントン拍子で面接の日が決まった。

しばらく面接すら受けていなかったので
何年も面接で着用してきたスーツが、全体的に少しきつい。

和也に付き合ってもらい、お店を何軒か回って
無難に紺のスーツに合わせてブラウスを買った。

靴を何度か試し履きしている途中で、
和也が買いたいものがある、と別の階へ買い物に行く。

サイズと履き心地がしっくりきた靴を買ってお店を出ると、ちょうど別の階からきた和也が迎えに来た。

「疲れたろ?何か飲みに行こう」

ショッピングモール内のカフェに入った。

智子も和也も喉が乾いていたのか
運ばれてきたお水を一気に飲み干して、
お互い笑う。

「よかったな、買えて」

「うん! 多少の出費は仕方ないよね」

注文したドリンクが運ばれてくると
和也はごそごそと大きな紙袋を出した。

「これも、持っていきなよ」
「えっ、」
「開けてみて」

和也は嬉しそうに笑う。
恐らくさっき、買ってくれていたんだろう。

紙袋の中身は、黒のシンプルなバッグだった。

「多分、これまで面接や研修の度に
相当使って、古くなっただろ?」

「......」

智子は下を向いて涙を浮かべながら言った。

「あ、あ、ありがとう......頑張る」

「うん、頑張れよ」

応援してくれている和也のためにも頑張ろう、
智子は誓った。

面接先の「便利屋 まるた」の事務所は、
智子の家の隣駅、商店街を抜けた閑静な住宅街にあった。

「あなたが、浅井 智子さん?」

肝っ玉母さんという言葉が似合う女性が、
微笑みながら出迎える。

「さぁさぁ、ようこそ。
ここに座っててくださいな。
今、社長が来ますから」

失礼します、と座ってまもなく
事務員の若い女性がお茶を運んできた。

「どうぞ楽にしててくださいね」

なんとも落ち着くこの雰囲気はなんだろう。
ご家族で経営されているからだろうか。

そんなことを考えていると、
後ろの方からバタバタと音がする。

「すみません、お待たせして」

と社長と思わしき男性だ。

「社長の丸田晃次です」

「浅井智子です」

お辞儀した智子に丸田社長は訊ねた。

「もう、家内と娘にはお会いになりましたよね?」

驚いたことに、
出迎えてくださった肝っ玉母さんは 丸田社長の妻であり、副社長の明子だった。

そして、お茶を運んできた事務員は娘のまち子である。

社長は笑顔で説明する。

「他にね、堀井くんと田辺くんっていう社員がいます。
今はね、ちょうどご依頼の仕事中なんだけど」

「そうなんですね」

「有美さんから聞いたけど、本当に住み込み希望なの?」

「はい、実は......」

智子は恥をしのんで自分の情けないこれまでのことを説明した。

仕事が続かないこと、親から仕送りを受けていること、ダメ人間なこと。

もう落ちてもいいと思っていた。

でもどこかで、飾らない自分で話したいと思っていた。

「こんな人間が働きたくても、
迷惑ですよね......」

智子は思わずそう言っていた。

時間を作って話を聞いてくれている社長、
副社長の奥様、娘さんにも申し訳ない気持ちになっていたのだ。

ひっく、ひっく......

気づけば目の前で社長が泣いていた。

「これまで、浅井さんは 沢山、
心痛めながら、苦労してきたんだね」

副社長も娘さんも頷いている。

「うちの仕事、ぜひ協力してほしい。
そりゃ時には大変なこともあるよ。
でも、その分、この仕事しててよかったと思うことたくさんあると思うから」

妻で副社長の明子も続けて言う。

「うちの家族になったつもりで、
くつろぎながらのんびり仕事も覚えていけばいいよ」

そしてまち子もこう言った。

「この前、うちのお姉ちゃんが結婚したんです。
その部屋も空いてるから。
いつでも越してきてくださいね」

えっ、えっ、と智子が戸惑っていると

「浅井さん、採用です。
ぜひ私たちと働いてください」

そう社長が告げた。

こんなに嬉しい採用はなかったかもしれない。

なぜか智子はそう思った。

あっという間に、智子が まるた に入社して3ヶ月が過ぎた。

住み込みということで、
面接で聞いていた通り、
丸田夫妻の長女の住んでいた 立派な部屋が用意されていた。

広さも間取りも智子には申し分ない。

基本的に食事も朝晩二食、丸田家族と食べる。

食事の支度の手伝いも和気あいあいとしていた。

年下とはいえ、しっかりした事務員の まち子とは四歳違いで話もよく合う。

先輩社員の堀井さん(ホリさん)と
田辺さん(タナさん)も、
厳しさはありながらも
普段はとても優しく、
面倒見のいい先輩だ。

「智子、本当によかったな」

和也はいつも会うたびに、そう言ってくれた。

不規則な仕事ゆえに、同じく不規則な休みの和也となかなか会えなくなるのでは、
と心配していたが、それは杞憂に終わった。

むしろ、智子自身が無職の時の方が
和也を誘いづらく、
かなり遠慮していたからだ。

「今日20時から会えるよ」
「俺も19時には仕事終わるから、あの店で待ってる」

そうした連絡がしやすくなった。

今日は、和也が 「勤続3ヶ月のお祝い」をしてくれるそうだ。

確かにこれまで3ヶ月なんて働いたことないから、和也の気持ちが純粋に嬉しかった。

乾杯も今日は、珍しくスパークリングワインだ。

「美味しい......」

爽やかに弾けるスパークリングワインの泡と和也を眺めながら
完全にささやかな幸せに酔っていた。

ゴホン、ゴホンと和也が咳払いをする。

「あのさ、智子」

「何? 」

「うん、智子が1年働くことができたら......」

「えっ......うん」

「その時、またちゃんと言うけど」

「うん」

「俺たち、結婚しないか」

智子は驚いて、思わず手にしていたハンカチを落としてしまった。

ハンカチを拾いながら、これは嘘じゃないかと頬をつねったりもした。

「ほんとだよ」

和也は笑っていた。

このまま時が止まればいいのに......

幸せを噛み締めながら、智子はそう思った。

【3】天国から地獄へ

日々の便利屋の仕事は、実に様々だ。

切れた電球を取り替えてほしい、とか
家の中で紛失したものを探してほしいとか。

わりと多いのは、ゴミ屋敷のようになった部屋の片付けだとか。

お年寄りなどが、重いものを含めて買い物を依頼したり、
病院や施設などへ送迎などを依頼したりすることもある。

また、依頼に100%沿えるものも、
どれだけ尽くしても完全に沿えないものもないとは言い切れなかった。

「何年やっても俺はまだまだ未熟だと思うんだ」

頻繁にそう話すのは ホリさん。

「2年目っていっても学んだことはほんと一部だって思うよ」

そう話すのはタナさん。

智子も日々、一生懸命だった。

一見、簡単そうに見える依頼でも
簡単だとか楽だと思ったことはない。

失敗もたくさんするし、
勉強することもまだまだたくさんある。

「ありがとう、本当にありがとう」
「助かりました! 」

数々のお礼を言われる度に報われた。

「だんだん、サトちゃん(智子)も立派になってきてるよ」

社長も副社長もいつも嬉しそうに言ってくれた。

そんなある日のことだった。

丸田夫妻が町内の自治会の集まりに出ていた。

ホリさんとタナさんは依頼の仕事で外へ出ていて
まち子は銀行に行っていた。

事務所に一人残っていた智子は電話番。

とはいえ、ひっきりなしに電話が鳴るわけでもないので、
ペットボトルのお茶を飲みながらのんびり本を読んでいた。

一本の電話が鳴る。

「こんにちは。"あなたの町のお助け隊" 便利屋 まるたです」

智子が電話に出て、なんとか噛まずに言えた。

すると、依頼の電話だった。

電話の依頼主は女性。

熱があって昨日から寝ているが、
ほとんど何も食べていないので
何かお弁当のようなものを買ってきて欲しいという。

「今、お熱はないんですね?
わかりました。
ではそのご住所でしたら、
30分ちょっとでうかがいますので」

智子は、食べ物の好き嫌いなども確認し、
電話を切る。

ちょうどまち子が銀行から戻ってきた。

「あっ、まち子ちゃん。
旭町三丁目の女性の方からご依頼で。
お弁当を届けてくるね」

「えっ、智子さん、一人で向かうんですか?すぐ父か母を呼び戻しますよ? 」

「大丈夫。
熱があってずっと食べられなかったんだって、その女性。
お弁当と飲み物とか買って届けるだけだから」

「でも......智子さん一人で大丈夫ですか」

「この仕事なら大丈夫だよ。女性のご依頼だし」

「......何かあったらすぐ電話してくださいね?」

まち子ちゃんが何度も念を押す。

少し鬱陶しいと思うほどだった。

しかし、まるたの場合、依頼は大小関わらず、基本的に二人で行くことが前提なので、仕方ない。

何度も注意を促すまち子ちゃんの言葉を受け流して会社を出た。

旭町三丁目なら、まるたから自転車で数分あれば行ける。

途中でお弁当や飲み物、そしてゼリー状の飲料などを買ってから、依頼女性のマンションへ向かった。

501 大野さん。

確認してからロビーでインターホンを鳴らす。

「(ドアロック)開いてます」

ロビーへ入り、エレベーターで5階へ。

5階に着いた時にスマホを見ると まち子から何度も着信していた。

「智子さん、無事ですか」

「うん、今、ちょうど着いたよ。
これからお届けするところ」

スマホを切って501の前に着く。

再びインターホンを鳴らすと、女性が弱々しくこう告げた。

「すみません、部屋の中までお入りいただけますか?
鍵は開いてますから」

わかりました、と伝え、智子は躊躇せずドアを開けた。

と同時に あることに気付き、
慌てて思わず、お弁当や飲み物の入った袋を落とす。

とにかくこの場から逃げようとドアを開ける前に、
智子はふらふらと倒れてしまった。

「はじめまして、浅井さん。大野です」

長身で体格のいい男性が仁王立ちしている。

依頼した大野さんは女性ではなかったのだ。

見れば無造作にボイスチェンジャーらしきものが置かれている。

やられた......初めからこのつもりだったんだ。

智子はだんだんと認識できてきた。

おそらく、この大野という男性は、
今日 事務所の前を通ったはずだ。

智子しかいないのを確認して、
智子が一人で来られるように
わざと小さな依頼をした。

そして智子が一人で向かうのも確認したはずだ。

「父か母を呼び戻しますよ?」

智子は、恐怖に震えていた。

何度も鬱陶しいくらいに智子を止めようとしたまち子の言葉を今さら思い出す。

まち子は、こうした危険のないように注意していたんだ。

なんでわからなかったんだろう。

ぐるぐると様々な思いが駆け巡る。

(そうだ、まち子ちゃんに......)

作業着の胸のポケットからスマホを出してまち子を呼び出す。

出て、まち子ちゃん、出て。

「もしもし、サトさん?もしもし?」

「まち子ちゃん、まち子ちゃん、ごめん、助けて! 」

最後の助けてという言葉が聞こえたかどうかは定かでない。

そのタイミングで大野はスマホを奪って床に放り投げた。

「やっぱり、こうして見ると、なかなかの美人だ。
体つきも、俺の好みだしな」

大野に触れられる度にビクッと恐怖と寒気が走る。

「おい、あっちへ行くぞ」

「やめて、お願い、やめて......! 」

智子の叫びは大野の手で塞がれる。

それなりに鍛えられた肉体であろう大野にはなかなか歯向かえない。

智子は バンッ、と無造作にベッドに投げられる。

大野は自分の着ていた服をあっという間に脱いで
下着一枚の姿になって智子を押さえつけた。

智子は大野に枕を投げたり布団を盾にしたりして抵抗していた。

しかし大野に力強く覆い被さられて抵抗もできなくなる。

大野は静かにこう言った。

「もう、逃げられないよ。
覚悟しろ、抵抗したら殺すぞ」

智子の目からはただ、涙が溢れた。

大好きな和也の顔や、まるたの社員の皆の顔が走馬灯のように浮かぶ。

大野が自分の顔や体に唇をつけたり、
大野の吐息が肌で感じられたりする度に吐き気がしそうだった。

た、す、け、て......

ガチャガチャとドアが開く。

「サト! 」
「サトちゃん! 」

丸田ご家族やホリさん、タナさんの声だ。

「たすけて!」

力の限り 智子は叫ぶ。

一番始めに駆けつけたホリさんは相手を刺激しないように防御しながら
智子に作業着の上着を投げた。

「サト、大丈夫か?それ着てろ」

大野によって下着姿にされた智子への気遣いだ。

受け取ってすぐに羽織ると恐怖で床に座り込む。

気づけばタナさんや丸田夫妻がすぐに駆け寄ってきた。

「バカ野郎。一人で無茶しやがって」

みんな少し涙ぐんでいる。

「すみません......本当にすみません」

智子は深々とお辞儀した。

なんとか事件は未然に防ぐことができたとはいえ、
智子の恐怖はおさまらなかった。

丸田夫妻の助言もあり、
智子は、その後 数日、お休みをもらった。

【4】甘い味、そして残る疑問

「サト、なんでうちの仕事は必ず二人以上で組ませてるかってこと、わかってるよな?」

「一人では無理な依頼も、時にはあるから。
そして、中には危険が伴うこともあるから。
あらゆる意味でね。」

「そうそう、そうやって協力していくなかで、
皆には、お互いバディ(相棒)って意識を
持ってほしいのよ」

あの事件のあとも、丸田夫妻や
ホリさん、タナさんには口酸っぱく何度も言われた。

たかだが半年近く働いて、色々一人前になったようでも、智子はまだまだ半人前だ。

まるたの仕事では、誰もが協力して依頼に取り組んでいた。

バディ、というより家族のような不思議な存在として。

そんな中で、智子は 自ら危険を招いてしまった。

やっぱり私はダメ人間なんだな......

そう思いながら智子はスタバにいた。

定職についていなかった頃は、スタバなんて敷居が高くて入ったこともなかった。

けれど 便利屋まるた で働くようになり、
ごくたまに、まち子ちゃんや和也ともスタバに来られるようになった。

カスタムの仕方も、メニューも覚えても

それでも、まだアウェイな気がする。

やっぱりここは居心地悪い。

スタバにいる人たちと智子では
なんとなく違うオーラが漂っているのを改めて感じた。

結局飲み終えてすぐにスタバを去る。

足は自然と通い慣れたファミレスに向かっていた。

すると、いつもの席に先約がいた。

和也だった。

「智子のことだから、一度スタバに行ったろ?」

和也にかかれば、智子のことは全部お見通しだ。

「ここにいれば、
必ず智子に会えるんじゃないかってね」

あの事件以来、和也とは話してもいなかった。

和也に申し訳ない思いもある。
また、自分から相手を誘ったのではと、
誤解されたくない気持ちもあったのだ。

「あれから、大丈夫だったか?」

「......ごめん、心配かけたよね......」

「俺はいいよ。てか辛かったのは智子だろ」

「......うん、......うん」

涙ぐむ智子を諭すように和也は続ける。

「何度も言ったけど。
智子が、無事でよかった。
これも丸田さんたちのおかげだな」

「そうだね......」

「和也」

「ん?」

「あたし、続けてていいのかな、まるたの仕事」

「え、なんで悩むの?」

「向いてない気がしてきてるんだ、あの事件以来。
だから辞めた方がいいのかなって」

「......仕事、イヤになったのか? 」

「いや、それはない! 仕事は好きなの。
まるたの仕事ってさ、あったかくて......」

「うん、うん、それで?」

「うん、仕事は好きなんだけど。
私がダメ人間だからさ、
また皆になにか迷惑かけちゃう気がして」

「......なぁ、それって、丸田さんたちや、ホリさん、タナさんが言ったのか?」

「ううん、そんなこと絶対言わない。
でもだからこそ、甘えちゃいけない気がして......」

そこまで話すと、すっと和也は無言で立ち上がった。

「え、ごめん。なんか和也、怒った? 」

「いや、ドリンクもらってくるだけ。
智子は何飲む?」

「......あっ、じゃあ、コーラ。
カロリーゼロの」

「氷3つ、だろ?」

和也はすたすたとドリンクバーへ向かった。

和也がドリンクバーから戻ると、会話は全く別のことになった。

仕事の話ではなく、共通の知り合いのことなど、他愛ない話。

一瞬、和也が怒ったように見えたのは気のせいだったんだろうか。

智子は少しドキドキしながら、久しぶりの和也のデートを楽しんだ。

ひとしきり楽しい会話をしたあと
ファミレスを出てから、
和也のジャケットの裾を掴んで離れずに歩く。

「智子、久しぶりに、うちに来るか?」

和也は照れ臭そうに智子に尋ねる。

「智子がまるたさんで働いてからは、
なかなか誘いづらかったし、さ」

和也は住み込みで働いている 智子を気遣ってくれていたのだ。

そんな和也を 智子は、たまに寂しく思う時もあった。
会う回数は増えても、なかなか二人でゆっくり会えない。

けれど、それを自分から言い出すのも勇気が入ることだった。

「まち子ちゃんに電話してみる。今日泊まってくるって」

和也はまた照れ臭そうに微笑みながら、智子が電話する様子を眺めていた。

夜ご飯は、鍋にしようということになった。
一緒にスーパーで買い物をするのも久しぶりだ。

和也はお酒や飲み物のコーナーへ行き、
智子は鍋の材料や、おつまみを作る材料を見繕っていた。

「浅井さん......? 」

ふと声をかけられる。

以前、依頼を受けた 増田さんという高齢女性だ。

「あのときは助かったわ。どうもありがとうね」

「いえいえ、増田さんもお元気そうでよかった」

「今度、またよろしくね。
また美味しい紅茶とお菓子用意するわ」

「はい、ご依頼お待ちしています。
またゆっくりお話しましょうね」

咄嗟に、お待ちしています、なんて言っている自分に気付き、智子は戸惑った。

なんで?辞めるかもしれないのに。

和也がかごにお酒や飲み物、氷を抱えながら戻る。

「今の人は?」

「うん、以前の依頼者の方だよ」

「どんな依頼だったの? 」

「うん、お話相手をしたの、私たち。
ご主人が亡くなられて、
寂しく過ごされてたみたいでね」

「そっか。そんなご依頼もあったんだね」

「うん、本当に色々あるよ」

さりげなく微笑む智子はなんとか戸惑いを隠そうとしていた。

無事、買い物を済ませ、久しぶりに和也の部屋へ入る。

「お邪魔しま......てか、くさっ!」

「え、臭い?」

「和也、なんか部屋全体的、洗濯物の生乾きのような匂いがする。
布団とか干してないんじゃない?」

「......バレた?」

「もう!しょうがないな。
適当に干したり洗濯したりしちゃうから、その間に買ったもの冷蔵庫しまっておいて」

智子は子どもを叱りつけるようにたしなめた。

まだ夕方にはなっていない。
洗濯物を何度か回せば少しはましになるだろう。

と、同時に まるたで教わったやり方で
消臭できる布製品を少しずつ、消臭していく。

ある程度洗濯物も干し、掃除や消臭も済ませている間、
和也は鍋の下ごしらえを済ませて、
そのあと、フレンチトーストを焼いてくれた。

「智子、フレンチトーストできたよ」

「ほんと?お腹ペコペコ。嬉しい! 」

和也の作るフレンチトーストが
智子は大好きだった。

淹れてくれる紅茶もとても美味しい。

「和也のフレンチトースト、久しぶり。
やっぱり美味しいね」

和也は返事の代わりに、
ゆっくりと智子に顔を近づける。

甘い、フレンチトーストの味と、
さらに甘い味がする。

静かな時間が流れる。

和也は静かにゆっくりと智子を抱き締めながら言う。

「ずっと、こうしたかった」

「あたしもだよ、和也......」

まるたで働くようになってからは、
なかなかこうして和也とゆったり過ごす機会がなかった。
そんな中で、この前の事件があった。

和也に抱きしめて欲しかった。
ずっとずっと大好きな和也に。

そのまま智子は、ひょいと 和也の両手に抱かれ、
寝室へ誘われた。

「ねぇ、和也。
ふとん、さっき乾いたばっかりなんだけどな......」

その智子の声を遮るように、和也は静かに智子を抱き寄せる。

和也の唇からは また、甘い味がした。

しばらく二人はベッドの上にいた。

さっきまでの甘く、そして時には狂おしい時間が嘘のように、今はとても静かだ。

「和也......」

「どうしたの?」

「私、混乱してるの」

「なんで?」

「私、まるたに入ってから変わった? 」

「あー......うん、変わったと言えば変わったかな。
基本的には良い意味で変わらないと思うけど」

「どんなところ?」

すると、和也は智子の頭をくしゃくしゃとなでながら、いたずらっ子のように言った。

「うーん、それさ、俺が答えちゃいけない気がするわ」

「なんでよぉ! 」

「怒るなよって。冗談だけど半分本当。
これに関しては智子自身が気づいた方がいい気がするんだ」

「なんで?」

「えっ、それは、これからの智子のため、かな」

その後、智子はシャワーを浴びながら考えていた。

私が変わったところ、自分でわかったほうがいいところってなんだろう?

先にシャワーを済ませた和也は、鍋の下ごしらえの続きに取りかかっていた。

「髪の毛乾かしたら、おつまみ、頼むよ」

和也は優しく笑う。

なぜ和也は、教えてくれないんだろう。
そして、私自身に分からせようとしているのだろう?

【5】やっと、気がついた。

久しぶりに和也の隣で目覚める。
智子は最高に幸せを噛み締めていた。

午後から仕事、という和也のための
お弁当を作ってから、朝ごはんを作る。

そろそろ和也を起こそうと、スープを温め直していると
和也が後ろから優しく抱き締める。

「智子、おはよう。
あー......いい香りだね」

和也もとても嬉しそうだ。

これからは、こうした時間もたまには作ろう、
改めて智子は思った。

昨日から和也と二人でゆったり過ごせたことで
あのイヤな事件のことも、傷が癒えた。

久しぶりに和也と幸せな二人だけの時間を過ごせて、
智子はとても幸せだったからだ。

だから、朝食の最中、つい こんなことを言ってしまった。

「和也と一緒だと本当に幸せ。
和也の約束よりは早いけど、
私、和也のところにお嫁に来ちゃおうかな」

照れ臭くて笑っていると、
和也はとても複雑な表情で智子をじっと見つめていた。

「いや、それはないよ、ない。あり得ない」

「えっ」

「勘違いしないで。
俺も智子のことは好きだけど。
それは違うんじゃないかな?
このタイミングで今、結婚じゃないでしょ?」

そのあと和也は淡々と朝ごはんを食べ、
そのまま黙々とソファーで新聞を読んでいた。

抱きついたりでもしたら、怒られそうな雰囲気だ。

「和也、怒ってる?ごめん」

謝りながら手を握ると 和也はいつもの表情に戻ったので一応ホッとした。

和也は和也で、言い過ぎたと思ったのだろうか。

朝食の片付けをしていると、ソファーから呼ばれた。

「智子、こっちおいでよ」

和也に飛び込むと、そのまま優しく抱き寄せられる。

さっきまで、和也が飲んでいたコーヒーの苦くて深い味が唇を通して注がれる。

「このまま聞いててね。
俺は智子のことが大好きだから、
甘やかしたくないんだ。
智子のためだと思ってるから」

そう言うと和也は智子をきつく抱き締めた。

「言っておくけど、ほんとは今すぐにだって結婚したいのは俺も同じだからね」

恥ずかしそうに和也は耳元で囁く。

智子の耳も熱くなった、

二人で一緒に和也のマンションを出て、駅で別れる。

今日、これから私はどうしよう。

まるたには夕方にでも帰るとして...

それまではやはり通いなれたファミレスだと思った。

「ごゆっくりどうぞ」

注文を受けた店員さんが笑顔で対応する。

もう何年もこの店でお世話になっている店員さんだ。

確か、初めて見た時には 入って間もない新人さんだった気がする。

それが、どうも、なんとなく社員さんになったような雰囲気がある。

この店員さんは、この仕事が好きなんだろうな、だから長続きするんだろうな、
そう思いながら 智子はコーラを飲む。

あれ?

仕事が好き、って。
私これまで思ったことあったかな?

智子はこれまでを反芻する。

仕事が好きとか、この仕事が楽しいとか
そんな風に思ったことは 智子はなかった。

なぜなら、仕事の面白さとか楽しさとか
そういうものに出会う前に辞めていたのだ。

「なんか向いてない/合わないかも」という理由で。

その 「向いてない/合わない」という基準も、人事や上司に言われたわけではない。

勝手に智子が判断していた。

キツそう、とか、面倒くさそう、とか。

そして、今、まるたで普通にしていることを
これまでしてこなかったことに智子は気づいた。

わからないこと、知らないことを尋ねる ということ。

ファミレスの紙ナプキンにボールペンを走らせ続ける。

私自身が、自分の知らないことやわからないことを認めるのが怖かったんだ。

智子はようやく気づいた。

自分に足りなかったことが、実は仕事する上で、いや、生きていく上で必要だったんだということに。

たまたま隣のテーブルを拭きにきた、さっきの店員さんに思わず智子は尋ねた。

「あの......」

「はい、ご注文ですか」

「あっいえ、あの......
今、このお仕事してて幸せですか?」

「......はい?......」

「ごめんなさい、私、このお店にずいぶん前から来てて、
あなたに数えきれないほど接客していただいて。
いつも、とても楽しそうに働いていらっしゃるから、聞いてみたくて」

すると店員さんはさらに笑顔になった。

「わぁ、嬉しいです!
私もお客様のことは存じていました。
入ったばかりの頃はおぼつかない私にも優しく対応くださって嬉しかったです。
そして、楽しそう、なんて褒め言葉ありがたいです、嬉しいです」

彼女の笑顔は眩しいくらい輝いていた。

私も輝けるのだろうか、彼女のように。

ドリンクバーへ向かってコーラを注いでいる間にふと思い出した。

昨日、和也と行ったスーパーで ばったり会った増田さん。

増田さんに対して、智子は 無意識に
「ご依頼お待ちしていますね」とか
「またゆっくりお話しましょうね」と言っていた。

あれは社交辞令なんかじゃないだろう。

便利屋 まるた の浅井智子として、増田さんに話していたことだ。

「またお会いしましょう」と浅井智子が無意識ながらも、
望んで発した言葉。

辞めるかもなんて考えていたのに。
そういうときの無意識な言葉って大切だ。

そして、和也に昨日話していたこともそうだ。

まるたの仕事は好きだと、
はっきり言いながら
ダメ人間だからまた丸田ご家族やホリさん、タナさんに迷惑をかけたくないと言っていたのだ。

丸田さんたちは教えてくれた。
バディであり、家族だと。

一人で無理なことも一緒にやろうと。

そして何より、どんなことを聞いても熱心に教えてくれる。

厳しさはありながらも皆優しくて。

そんな、まるたが、まるたの仕事が大好きなんだと、智子は気づいた。

スマホで和也に電話をする。

出られなくとも留守番電話に話すつもりだった。

「...智子?どうした?」

「和也、仕事中ごめんね。
伝えたいことがあってさ」

「大丈夫、なに?」

「私、間違ってた。ずっと間違ってた。」

「......うん?」

「私もうとっくに出会えたんだよね。
ずっと求めてた、好きな仕事、好きな職場に」

「うん」

「和也はわかってくれてたんだよね」

「あはは、当たり前じゃん」

「こんなの初めて。
まるたが好き。
まるたの仕事が大好き」

「......そう言われると、
ちょっとまるたに嫉妬はするけどな」

「あはは、和也は特別だってば」

「そっか。また頑張れるか?」

「うん! だからまた見ててね、私のこと」

「おう」

【6】小さくとも、大きな進歩

数日休みをもらった智子はすっかりリフレッシュできた。

そして、これまで以上に仕事を楽しもう、仕事を覚えようと意欲的だった。

そんな智子の様子を、丸田ご家族も、ホリさんとタナさんも嬉しそうに見守っていた。

そんなある日のことだ。

その日は月一回行われる 丸田家での夕食会。

仕事を早めに終わらせて、社員全員で親睦を深めつつ、夕食会をしようという日だった。

「メインはおでんにしようか、サトちゃん」

「そうですね、あ、おつまみに焼き鳥とか」

「いいねー!」

「あと煮込みとかも」

明子と智子は、お昼時間に早めにスーパーに来ていた。

「あとアルコールも買ってきますね」

「うん、飲み物はサトちゃんに任せるわ! 」

アルコール売り場に向かうとふと床のチラシに気づく。

「便利屋まるた」のチラシだ。

不要な人には不要なのは致し方ない。

しかし、智子はかなり多くの割合で
床に捨てられている まるたのチラシに気づくことが多かった。

「これ、なんとかならないかなぁ......」

気を取り直してアルコール売り場に向かった。

そして夕刻、
社長の乾杯の一声で宴が始まった。

夕食会では、普段とは違う、素の皆さんが見られて楽しい。

この日の一番の話題は、ホリさんとタナさんのマッチングアプリでの惨敗話だった。

ホリさん、タナさんならではの 「マッチングアプリあるある」話や失敗談にみんな涙を流して笑う。

「遅くなりましたー! 」

そんな中、少しだけ遅刻してきたのが和也だ。

社長と明子やみんなの総意で、私の入社以来、和也は まるたファミリーと認識されていた。

「え、なんの話題で盛り上がってたんですか?」

「えー......和也、俺らまた話すの?
勘弁してよ」

みんなまた思い出し笑いをする。

ふと、ホリさんが遅れてきた和也にお酒を進めながら尋ねる。

「和也、そういえばさ、ずっと聞きたかったんだけど。
お前とサトってどうやって付き合ったの?」

「えええええ!? 」

「和也、ホリさん酔ってるから!
まともに答えなくていいから! 」

「えー、みんな聞きたいけどなー」

智子は恥ずかしさのあまり真っ赤になる。

まち子は笑いながらあえていじわるする。

「和也さーん、教えて下さい。
私も今後の参考にするんで」

「もう、まち子ちゃん! 」

その日の夕食会は笑いが絶えなかった。

ひとしきり飲んで、食べて。

明子特製のフルーツタルトと共に
紅茶やコーヒーが運ばれる。

そこからは、ゆったり、まったり 静かに話す時間帯だ。

「あのっ」

皆が静かな中で 智子は勇気を出して手を挙げた。

「す、すこし提案というか、問題提起しても
よろしいですか」

皆から温かい拍手がわく。

「ありがとうございます。
あの、今日も商店街とスーパーで気づいたんですけど。
まるたのチラシって、なぜか多く捨てられてませんか?」

みんな 確かに、というような表情で顔を見合わせる。

「チラシの内容は悪くないと思うんです。
こんなことできるよ、
あんなことも依頼できるよ、って、
あと金額も」

「そうなんだよねぇ」

相槌を打ちながら、しみじみと明子がお茶を飲む。

「何が足りないかな?って考えたんです。
それで浮かんだのが。クーポン。
チラシにクーポンつけるんですよ!」

「クーポン?そんなのできるの?」

社長が訊ねる。

「私、むかし、むかしむかし。
ファストフードで勤めてたんですけど。
今はファストフードってチラシもすくなくなりましたけど。
むかし、チラシに割引のクーポン付けてたんです」

「あ、あったよね!懐かしい! 」

和也が頷く。

「そう、だから、たとえちょっとの割引率でもクーポンつけたらどうかなって」

「なるほど!」

でかしたぞ、という顔でタナさんが言う。

「確かに割引率、クーポンか。
検討してみようかな、
その時はサト、一緒に案頼むよ」

「はい! 」

智子は嬉しかった。

まさか仕事のこうした案でも自分の意見が通るなんて。

「なんだか、どんどん智子は成長していくな」

夕食会の帰り、智子が和也をタクシー乗り場に送る途中で、和也はポツリと言った。

「俺さ、今じゃあ、智子がこれからなにするのか楽しみだよ、いつも」

智子はぎゅっと和也に抱きつく。

「こういうのは?」

そう言うとすぐさま智子は自分から唇を近づける。

少しだけど、二人にとっては長い大切な時間。

「嬉しいよ」

和也も負けずに智子を抱き締め、
唇をそっと重ねた。

「聞いてくれ、みんな。
来月から、新しく三人仲間入りすることになったぞ」

終業時刻に、社長から皆に告げられた。

「サトの提案通り、女性も二人雇った。
サトの言うとおりだよな。
彼女たちも面接で言ってたよ。
以前、片付けを頼んだときに
女性スタッフで助かったって」

智子の頬が思わず赤らむ。

智子は少し前から、丸田夫妻にさりげなく言っていた。

純粋に作業の効率化を図るために
スタッフを増やせないか?ということと、
安心して女性が依頼できるように 女性社員が増えたらいいな、と。

「サトももうすぐ丸一年。
二年目に突入だな。
まだまだしごくぞ」

冗談っぽくホリさんが笑う。

「あ、そうか。俺も三年目になるんだ」

どこかいつも抜けていても頼れる兄貴分のタナさん。

「また仲間が増えても頑張ろうな」

三人は大きく頷いた。

【7】陽の射す方へ

あっという間に、智子のまるた入社から1年が経った。

「サト、いつもありがとう。おめでとう。」

まるたでは、いつも恒例の 一年毎のプラス賞与が 丸田社長から直々に贈られた。

「いつもありがとうございます!」

少し緊張しながら、智子は
丸田社長お手製の賞状と封筒を受けとる。

なんてあったかいイベントなんだろう。

まるたに入社して、一年勤めることができて本当によかったと智子は心から思った。

新しく入った 新入社員三人もだいぶ慣れてきている。

仕事の飲み込みも早くて、頼れる後輩たちだ。

まるたは 事務員のまち子が中心となり、
Webやアプリでの予約、問い合わせなども力を入れるようになった。

そのため、予約も以前より少しずつ多くなっている。

一年前とは同じようで、少しずつ変わっていくのだな、智子はそう思った。

そんなある日、朝ごはんの支度をしていると、 明子が智子に訊ねた。

「そうだ。二年目になったし、
サトちゃん、そろそろ、あの仕事、
挑戦してみる?」

あの仕事、とは まるたで請け負っている
遺品整理の仕事だった。

以前、何度か智子が請け負うはずだった仕事がある。

しかし、やはり当日になり、できないと思い、
その役目を奥様や社長に変わってもらっていた。

智子は怖かったのだ。
故人の思いや思い出のつまった
遺品というものと向き合うことが。

智子は実家にいた頃、両親と兄、姉、祖母と暮らしていた。

両親も 兄も姉も、小さい時は智子に優しかった。

けれど、中学校に入った辺りから 両親も兄姉も 【出来の悪い】と、智子を見下すようになる。

何をしても褒められず、苦しかった。

そんな時に、祖父が亡くなり、
祖母が同じ家で一緒に暮らすことになった。

「サト、サト」

祖母は智子をいつもとても可愛がってくれた。
智子も小さい時から変わらない愛情を注いでくれた祖母が大好きだった。

大学2年の夏休みのことだ。
祖母が倒れた。
処置が遅かったそうで、智子が病院に駆けつけたときには
祖母は既に亡くなっていた。

智子は声をあげて泣いた。

葬儀や初七日、四十九日。
目まぐるしく 様々なことが過ぎていく。

気づけば、祖母は、仏壇の祖父の隣に並べられた。

祖母が亡くなってから数ヶ月、
まだ智子が祖母を失った悲しみから癒えていない11月の終わりに父が食卓で言った。

「このままってわけにもいかない。
おばあちゃんの部屋の整理をしよう。」

てっきり、家族で手分けするのだろう、と思っていたら、
その役目は智子に押し付けられた。

まだ学生の身分であること、
智子が一番 祖母と親しかったという理由だ。

大掃除はやらなくていいから、と
色々理由をつけられて智子に任された。

智子は祖母のために、
しっかりと務めを果たさなければ、と思っていた。

ところが、ひと度 祖母の部屋に入ると
まだ祖母が生きているような気がして
智子は涙が止まらなかった。

おばあちゃんのお気に入りのブラウス。
おばあちゃんのお気に入りのハンカチ。

触れる度に、祖母との思い出がよみがえる。

気づけば、整理はほとんど進まぬまま
一週間以上経った。

「なんで、これしかできてないの?
バカなの?」

「サト、お前、ほんと使えないな」

「これ、もうさっさと手分けしてやるか」

家族は皆、呆れたように智子を睨む。

「サトはもうやらなくていいから」

結局、智子は祖母のための整理をきちんとできなかった。

ダメな人間だ、私、最悪だ。

家族が長年放った言葉は、その後長いこと深く深く智子を刺していた。

その後の就職活動もうまくいかず
どこでもまともに働けず。

そんな智子が まるたでは1年勤めることができた。

「サト、どうする?」

「やります、私」

初めて智子は、遺品整理の依頼を受けることになった。

依頼主は、仕事で地方に暮らす男性だ。

半年前に亡くなったお母様の一人暮らしの部屋を整理してほしい

お母様の一人暮らしのマンションの部屋は売りに出すため、その前の簡単な掃除も含めて、という依頼だった。

ホリさん、タナさんと下見に来たように
当日も同じトラックに三人で乗る。

「サト、辛くなったら言えよ」

エンジンをかけながら ホリさんが言った。

「はい、ありがとうございます」

車を走らせ、依頼主のお母様の暮らしていた部屋へ着いた。

決めた段取りで、それぞれ部屋に分かれて作業する。

「失礼します」

手を合わせながら智子は、亡くなったお母様に思いを寄せた。

「お母様、お部屋、綺麗にさせてくださいね」

少しずつ、少しずつ整理しながら
不要品はゴミとして仕分けしていく。

「サト、サト」

どこかから祖母の声がしたようだ。

「サト、偉いよ。見守っているからね」

祖母の声だ。

智子を応援してくれているのだろうか。

たとえ思い過ごしでも、
祖母の言葉が聞こえたような気がして、嬉しかった。

温かい気持ちを背負いながら、智子は着々と作業を進める。

祖母の遺品整理ができなくて、ずっと罪悪感が智子にはあった。

ダメな人間だと思っていた。

そんな智子に、和也はずっと寄り添い、励ましてくれた。

智子が1年勤められて、こうして
人様の遺品を整理できているのは
まるたという職場のみんなのおかげだった。

「サト、その部屋済んだらこっちの手伝い頼むよ」

タナさんがそう言った。

「はい! 了解でーす! 」

「マジで?遺品整理してきたのか! 」

和也は驚きながら、智子を抱き寄せた。

付き合い始めの頃に祖母を失ってから
ずっと智子から 遺品整理をできなかった罪悪感を聞いていたからだ。

「よく頑張ったな、智子」

「ありがとう、和也」

抱き締められたまま智子は囁く。

「おばあちゃんの時にも、こうしてちゃんとできたらよかった......」

智子は俯きながら、悔しそうに唇を噛む。

「......智子のおばあちゃんも、きっとわかってくれてるよ」

「......うん」

「それに、今だから出来たんだよ。
時間かかったかもしれないけど。
智子には必要な時間だったんだ」

和也はそう言いながら、智子の髪を優しく撫でる。

必要な時間。
だとすると、あれだけなかなか定職に就けなかったのも必要な時間で、意味はあったのだろうか?

「俺はそう思うよ、きっとね」

和也は優しく微笑む。

また、さらに近づいて しっかりと智子の顔を見つめて小さな箱を差し出した和也は、
智子にこう言った。

「智子」

「はっ、はい」

「俺と、結婚してくれますか。
そのままの、飾らない智子が、
俺は好きだから」

智子は泣きそうな目でしっかりと答えた。

「はい、和也のお嫁さんになりたい」

和也から贈られた婚約指輪はサイズもぴったりだった。

「便利屋の仕事の時は指輪、ネックレスにして身に付けておくね」

和也は嬉しそうに頷いた。

「おめでとう、和也くん、サト」

乾杯の挨拶前から既に社長は嬉し泣きしていた。

智子の婚約でこんなに泣くなら、まち子の時は、社長はどうなるのだろう?

そんなことを智子は考えていた。

和也から正式にプロポーズを受けた週末の夕食会には、
和也と智子に所縁ある有美さんも、
お店を休みにして駆けつけてくれた。

「サト先輩の結婚式には三人で余興しますからね。
でも結婚は誰が勝つか、負けませんよ」

後輩の一人、ヒトミが冗談交じりに笑う。

ホリさん、タナさんは、和也にしきりに合コンを頼んでいる。

「合コン!?僕は行きませんよ、彼女いるし......」

後輩社員のタカオは思わず呟くと
ホリさんとタナさんにいじられる。

既に余興は何をしようか決めている、
まち子ちゃんと、もう一人の後輩 マリ。

丸田夫妻はまるで本当の両親のように
二人の婚約を祝福してくれた。

大学の頃からお店でお世話になっていた有美さんも、
まるで親戚のおばさんのように嬉し泣きしていた。

いつのまにか、智子、そして傍らにいた和也も とても温かく素敵な人たちに囲まれていたのだ。

みんながワイワイしている様子を、智子と和也は少し離れて眺めていた。

「みんな、いい人たちだよね」

「うん。家族みたいだ」

「ほんとだね」

二人ともクスクスと笑う。

「和也、私たち、もっともっと幸せになろうね。」

「ああ、もちろん」

二人が囁くように話していると、社長が二人に大きな声で叫ぶ。

「ほら!そこで二人でコソコソするな!
こっちでまた乾杯するぞ」

智子と和也は二人で笑いながら手を繋いで
みんなのところへ戻った。

「みんな、グラス持ったか?」

はーい、と皆、嬉しそうに答える。

「それじゃあ、今一度 おめでとう! 乾杯! 」

「かんぱーい! 」

皆の声が大きく重なる。

コップに注がれていたのは、キューバ・リブレ(リバー)だった。

コーラが好きな智子のために、社長が即席で作ったキューバ・リブレ。

これまで飲んだ、どのキューバ・リブレよりも美味しいと、心から智子は思った。

「社長、私、このキューバ・リブレの中で泳ぎたい。
今なら、私 泳げる自信あるから」

智子が真顔でそう言うと、皆 何を言ってるんだと言いながら 大爆笑する。

今ならどんな海でも泳げる自信あるのにな。

本当に智子はそう信じていた。

和也が隣にいてくれる。

そして まるた の みんなに 囲まれているから。

                       【了】

#創作大賞2022

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