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徳川家康さま☘️をたどる#82☘️大坂夏の陣・本戦2

初筆 2024年 4月 19日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 82
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 大坂夏の陣本戦うち天王寺口の戦では、 #毛利勝永 さまが、家康さま総大将の徳川天王寺口方面軍の先鋒・2番隊・3番隊を突破し家康さま本陣に肉薄❗️💦15年も実戦から離れると徳川四天王の次世代と言えども戦のカンが鈍っていた

  •  #松平忠直 さまと激戦していた #真田信繁 さまは守備が手薄となっていた家康さま本陣に突撃を3回繰り返し、家康さま馬印が倒れるも、他勢の徳川勢に押され、信繁さま討ち取られる

  • 総大将 #徳川秀忠 さまの徳川軍岡山口方面軍も、開戦間もなくは豊臣方に押されたが、徳川軍の多勢に豊臣方は崩れ、豊臣軍はすべて大坂城に撤退

前回はこちら❗️
⬇️

3 大坂夏の陣本戦の大坂方軍議と秀頼さま


1615年・慶長20年5月7日正午に始まった
大坂夏の陣、一時豊臣軍が優勢になるも、
大軍勢の徳川軍に押されて、15:00ころには
豊臣軍全軍が大坂城に撤退するまでを
前回は徳川方の視点から時系列に話しました。

今回は、少し時間を巻き戻し、
大坂夏の陣本戦の1日前から、
豊臣方の動向・秀頼さまの様子を話します。

1615年・慶長20年5月6日、各前哨戦ののち
豊臣軍は軍議のため大坂城に入りました。

その軍議の決議事項は

  • 真田信繁さま・毛利勝永さまの隊が天王寺近辺に布陣

  • 別働隊と #明石全登さま隊が大阪城の西に布陣。

  • 徳川軍を天王寺に引きよせて決戦を迎える。

  • 明石隊が茶臼山の南に回り込み家康さま本陣の背後をつく。

  • 引きつけた徳川軍を前後から挟撃する。

という作戦で、
豊臣軍が崩れていく前の段階、天王寺口の戦は、
ほぼこのシナリオに沿って進行していました。

この作戦行動時には
#豊臣秀頼 さまも総大将として出馬という
ことになっていた、という前提で話します。

4 現場よりの秀頼さま出馬要請と大坂方の様子


豊臣軍・徳川軍が対峙する中、
豊臣方・真田信繁さまは茶臼山の陣にて
豊臣秀頼さまの出馬を待っているとき、
徳川勢の天王寺口方面軍先鋒の
#本多忠朝 さま勢と豊臣方毛利勝永さまが
戦闘を始めてしまいました。

信繁さまはこれを制止しようとしましたが、
毛利勝永さまと徳川勢の天王寺口方面軍との
戦は止まるどころか激しさを増していきました。

この状況を見て真田信繁さまは、
配下の者を大坂城に使わし、
秀頼さまに出馬要請をしました。
秀頼さまは出陣準備中で
「自分の出馬を合図として合戦を始めるという、
かねてからの作戦どおりにせよ」
とおっしゃりましたが、この時点でこのシナリオは
破綻してしまっています。
仕方がなく信繁さまも戦闘体制に入りました。

また、#大野治長 さまも秀頼さまの出馬を促すため、
真田信繁さまが家康さま本陣への突撃を
敢行していたタイミングで大阪城に戻りました。
豊臣軍の指揮官の大野治長さま・真田信繁さま・
毛利勝永さまは、徳川軍への突撃時に
秀頼さまか総大将として現地にいてほしかったのです。
豊臣軍が家康さま本陣に肉薄しているときに
「秀頼さまご出馬❗️」の情報が伝われば
豊臣勢は士気は高まり限界以上の力を発揮できる、と
豊臣軍各指揮官はお考えでした。


大野治長さまが大坂城まで
秀頼さま出馬要請に行くことを
真田信繁さまと相談の上でした。
しかし、そのときに大野治長さまは

  • 秀頼さまの馬印を上げたまま大坂城に戻り、事情を知らない豊臣兵に、大野治長さま逃亡=豊臣軍の敗北という誤解を生んだ

  • 大野治長さまは大坂城に入り、古傷のせいで意識不明になってしまった。誤解がしばらく解けない状況になってしまった

と、大坂方に不利な誤情報を作ってしまいました。

また同じタイミングで徳川方への内通者が
大坂城内部に放火し大坂城に火の手が上がり、
さらに真田信繁さまが、息子の真田大助さまに
秀頼さまに付き従えの命を受け大坂城に戻したのを、
豊臣軍敗北で信繁さまは子供を逃した、
という誤解を生みました。

大野治長さまが大坂城に戻ったとき、
実は秀頼さまは出馬決意から、まさに出陣
というタイミングでした。
が、天王寺口・岡山口の両方で
徳川軍は体制を立て直し猛反撃をかけ、
豊臣軍が崩れかかっているとの
知らせが大坂城に届きました。

秀頼さまは出陣しようとしますが、時すでに遅し、
#速水守久 さまに
「先手が総崩れした今は出馬しても仕方ない。
本丸を固め、いざとなれば自害すべき」
と諌められ、秀頼さまはついには出陣せず、
千畳敷に引き揚げました。

このように豊臣軍の戦意を消失させる
誤情報や出来事が、大坂城の内外で発生し、
野戦中の豊臣軍は精神的に崩れ、
大坂城兵は絶望、続々と城から逃亡したといいます。

5 秀頼さまの出陣はなぜ機を逃したのか。また秀頼さまご出馬していたら現場の戦況は変わったのか❓

大坂方総大将の秀頼さまは
なぜ出馬タイミングを逃したのか❓

  • 秀頼さまご自身、戦の経験がなく、機を見て撃って出ることの大切さを理解していなかった

  • 豊臣軍指揮官はみな現場に撃って出ていて、秀頼さま側にアドバイザーがいなかった

  •  #淀の方 さまが秀頼さまの出陣をよしとしなかった。また、秀頼さま出陣は豊臣方の優勢が確定してから、と淀の方さまは考えていた、という説もあります。

平たくいうと大坂方は主君も家臣も
出来が悪かった💦ということです。
しかし秀頼さまは、少なくとも総大将としての
責任感はお持ちだったと考えてよいかと思います。

では秀頼さまの出馬が叶っていたら
豊臣軍は徳川軍を破ることができたのか❓

真田信繁さまが家康さま本陣に斬り込み、
逃げる家康さまにはわずかの従者しか
付いていなかったのです。

その機を逃さず、秀頼さまが豊臣軍本軍を従い
押し出してきたなら、豊臣軍は家康さまを
討ち取ることができたかも知れません。
それは家康さまもわかっいたことでしょう。

ただしそれは、
秀頼さまが現地に居るだけではなくて、
秀頼さま自らの判断で「家康さまを仕留めよ」
の軍杯を振る器量が必要でした。

また、家康さまを討ち取ったとして、
徳川本軍には秀忠さまもいらっしゃいます。
秀忠さま付きの徳川家臣団も優秀です。
豊臣軍・徳川軍の多勢に無勢に加えて、
家臣団の層の厚さの違いを考えると、
豊臣軍が家康さま・秀忠さま両方を討ち取るのは
ムリだった、と考えられます。

6 燃える大坂城


前回は大坂夏の陣を徳川方の視点から、
今回は秀頼さま出馬と大坂方の様子を話しました。
ここでその両面からのストーリーを1つに統合して、
徳川軍の軍列立て直しから反撃、
その後の天王寺口・岡山口からの豊臣軍の
大坂城への撤退後から話し始めます。

大坂城は炎上、天守にも火が移り、
大坂の空が真っ赤に染まるのを
京都からも遠望できたといいます。

大坂冬の陣にて堀を埋め立てられていて、
裸同然の大坂城に、殺到する徳川軍を
大坂方はもう止められません。
大坂城1番乗りは真田信繁さまの隊を壊滅させた
松平忠直さまでした。

1615年・慶長20年5月7日午後4時ごろ
大野治長さまは、秀頼さまの奥方で
家康さまのお孫さんの #千姫 さまを
徳川本陣まで送り届けました。
治長さま自身が切腹する条件での
秀頼さま・淀の方さまの助命嘆願のためです。

そして家康さまは、秀忠さまに判断を任せ、
5月8日に秀忠さまは秀頼さまらに切腹をお命じに
なったというのが今現在の通説です。
それを伝えたのは井伊直孝さまで、井伊軍は
1615年・慶長20年5月8日正午ごろ
秀頼さまご一同が立てこもっていたとされる
山里丸にある焼け残りの蔵に向けて、鉄砲を放ち
=自害して果てよ、と伝えたとのこと。
秀頼さまらはご自害、蔵から火が上がりました。
ここに豊富当主の豊臣秀頼さまや淀の方さま
従う家臣や侍女たちまでご自害をなさいました。

これをもって大坂夏の陣は終了、
それは戦国時代の終焉でもありました。
羽柴秀吉さまが築城なさった大坂城は
完全に焼け落ちてしまったのです。

7 家康さまはいつ豊臣家を滅ぼすことを決めたのか❓

豊臣秀頼さまのご自害で大坂夏の陣終了しました。
家康さまがそうしようと思ってしたのか❓
それともそうせざるを得なかったのか❓
つまり秀頼さまを生かすつもりだったが、
周囲が秀頼さまを自害させるのを
家康さまは止められなかったのか❓

家康さまの明確な考えを示す史料はありません。
史料にあるのは状況証拠だけです。

  • 大坂夏の陣直前の、家康さまから大坂方へお命じになった内容は「他国への国替」または「浪人衆の解雇」で、秀頼さまがこれを受け入れていたら、家康さまは秀頼さまを生かしておいたと考えられる。

  • 大坂城落城時に、秀頼さま・淀の方さまの命乞いを依頼されて徳川本陣にやってきた、千姫に対して家康さまは「将軍(秀忠さま)の意のままに」と回答。秀忠さまは「ご自害なされよ」との回答

もはや推測するしかありません。

家康さまも秀忠さまも、豊富家を潰す潰さないとか
秀頼さまのお命をどうするか、ということは
2次的な作業項目の1つに過ぎず、本来の目的は

  • 戦国の世を終わらせること

  • 民がみな平和に暮らせる世の中・仕組みを作ること

  • リーダー(今は家康さま)が何代代替わりしても平和が続くこと

を実現することでした。
家康さまなら、ご自身が国の舵取りをするのなら
秀頼さまを1大名にしておけば、
平和維持はできると、きっとお考えでした。
秀忠さまは秀頼さまに生きていてもらっては
秀忠さまご自身の器量や秀忠さま付き家臣では
平和は維持できないと思ってらしたんでしょう。

そして家康さまはそれがわかっていて、
千姫の命乞いの回答を秀忠さまに
任せたのだと思います。

大坂夏の陣の前を起こす前には
秀頼さまを生かすつもりであった家康さま、
しかし夏の陣の戦闘中のどこかで、
秀頼さまを生かす気がなくなったのではないか。

戦国時代の浪人諸将と政治勢力候補が
結びつくと大きな謀反になりかねない。
大坂の陣で、秀頼さまという政治勢力配下で働いた
真田信繁さま・毛利勝永さまに
追い詰められたとき、家康さまはやっと戦時の外交の
勘ドコロを思い出したのではないでしょうか❓

家康さまももしかしたら15年間の
戦のない世の中のせいで、
外交基準がにぶっていたのかも。
家康さまも実はすっとこどっこいでしたー🤣💦💦

8 次回

徳川方が首の皮一枚での勝利を得た大坂夏の陣❗️
豊臣秀頼さまはご自害なさいました。
しかしこれだけでは平和な世の中はやってこない。

家康さま・江戸幕府は大坂夏の陣の
戦後処理で何をどのように行なったのかー❓❓

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