徳川家康さま☘️をたどる#7#8増刊号☘️桶狭間前の家康さま
初筆 20210521 / 加筆修正 20210528
この記事は有料ですが、今とこは実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ🤪✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#7
⬇️
https://stand.fm/episodes/63a1d52b83332b0216acaa98
またこの記事の後半と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#8
⬇️
https://stand.fm/episodes/63a1dd8483332b0216acab0e
1 コンセプト
いちおー書物や文献も引くのですが
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
こんときはあー思ったんちゃうやろか、と、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
2 前回
前回は、
松平広忠さま(家康さまのお父さま)が
生涯のうち身内と敵対した大きなもの2つのうちの
2回目の止むに止まれぬ敵対について話をしました。
松平蔵人信孝さんは広忠さんの叔父様そして
松平清康さん(広忠さんのお父さま)の弟さんで
広忠さんに背く意思はないのに、たまたま勢力を持ちすぎ
本家への挨拶がなかったので、止むを得ず敵対してしまいました。
広忠さまが信孝さまを討ち取ったときに
「我より無理に敵とす」とはらはら涙をお流しになった。
前回記事はコレですよ🤗
⬇️
3 広忠さま・家康さまの生年・没年と今川家人質時代
純粋な一次史料とは言い切れない🤪
大久保彦左衛門忠教(ただたか)さんの三河物語は
松平家に感情移入して書かれてて、
今回とくに家康さま人質時代の今川家🆚松平家の
経済的な関係性をは感情を交えつつ述べられています。
では広忠さんの生年・没年と家康さまが人質時代終了までの
年表を書いておきます。
松平広忠(家康さまのお父さま)1526〜1549
家康さま 1542年生まれ
1547〜織田家人質
1549〜今川家人質➡️今川家武将
1560〜桶狭間勃発
なお、このマガジンの「徳川家康さまをたどる#4」にて
家康さま(当時、竹千代君)は
・誰に ・どのような
教育を受けたのかについて述べてあります。
⬇️
その後、竹千代君が駿府にてどう成長し
今川家人質から今川家の一武将になっていったのかについて、
またその頃、岡崎の松平家の経済状況(三河物語では感情的記述)に
ついて語っていきます。
竹千代君=家康さま、13歳〜18歳くらいの時分のお話です。
4 その後の竹千代君の成長
1555年、駿府にて竹千代君、御歳12歳にて元服なさいます。
名前は今川義元さんから一文字拝領し
松平次郎三郎元信さま。
元服ってのは一般的に言えば一人前扱いされるということ
平たく言うと、戦に借り出すよ、ということ💦
さらに言うと、兵糧と軍役は自分で調達せーよ、ということ💦
1556年今川家の重臣、関口氏純さんの娘を娶り、次世代竹千代をもうけ
(後の松平信康)今川家ご一門の親類衆となりました。
会社『今川家』において専務お嬢様と結婚するようなもんです。
今川家での出世コースではないですか❗️
平たく言うと、人質はもらうよ、ということ💦
現在、元信さま(家康さま)が初めて記したとされる公文書は
1557年三河高隆寺へ寺領の保証をした証状(高隆寺文書にあり)で
花押(サイン)がお父さまの広忠さまテンプレつまり
松平家従来型の花押であるとのこと。
そして今後、元信さま(家康さま)の花押は今川義元さまタイプに
変化していくとのこと。この辺り、元信さま(家康さま)は
今川家内では人質ではなく今川家の一武将という認識をするとともに
周囲からもそういう扱いだったであろうことが推測できますね。
しかしこれも平たく言うと、元信さま(家康さま)が
空気を読んで花押を今川家風に修正したということですよ💦
戦に駆り出される
兵糧米・軍役の自己調達
人質を取られる
文化を今川家風にする(花押)
などの苦労も雪斎さまに教わったであろう
今川家軍師・参謀・No.2への道、今は我慢の時と
元康さま思ってらしたことでしょう。
1558年には今川家の武将(見習いくらいや思う)として
今川家に従わない寺部鱸(鈴木)氏攻めで武功を上げ
その戦功から岡崎の山中という所領を返還された。
このころ名前を元信から松平次郎三郎元康に改名
「康」の字は三河平定直前まで持っていけてた爺さま「清康」の
一文字、なんかしらの意思表示があるのかも、ですね🤗
⬆️
以上がスタエフでの
徳川家康さま☘️をたどる#7
と内容リンクする段です。
お読みいただきありがとうございます🙇♂️
そして以下がスタエフでの
徳川家康さま☘️をたどる#8
と内容リンクする段です。
よろしくお願いいたします🙇♂️
⬇️
何はともあれ、人質から少し脱却し、今川家親類衆として
駿府から岡崎の領国経営をしていたとの記述が
『桑原洋次郎氏所蔵文書』に掲載あるとのことです。
また松平領国の政務は今川氏保護のものではあるが、
松平家譜代家臣により松平家のやり方で運営されたと
『浄妙寺文書』にあり。
駿河国と三河国では政治・経済・産業などの違いもあります。
今川家にとっても松平領国のことは松平家に任せるほうが効率的。
これはまさに江戸時代の領主は参勤交代で江戸に詰めて
そこから領国経営を行う、的なものに近く、また、
子会社の社長はフダン親会社に詰めている、ていう話にも近い。
5 松平家🆚今川家の感情論ありきの経済関係(三河物語の記述)
ところがですね、大久保彦左瀬門忠教さま著の三河物語は
かなり感情論が述べられています💦
三河物語の「三河譜代の人びと野の苦労」という段から
元康さま(家康さま)の今川家武将時代の三河譜代家臣の
生の声を箇条書きにしてみます。
・ご譜代の人々は年貢米を与えられなかった
・元康さまは岡崎の山中地域だけでも年貢米もらえないか今川家に交渉
・譜代衆は自ら田を耕し我が身を過ごし(命をつないだ)
・ひどいなり(服装)
・駿河州(今川家の方々)にはご機嫌を取り恐れかしこまった
・駿河の主人(元康さま)に影響があってはいけないから
・一度三河で合戦があると先鋒は必ず三河衆(討死の確率が高い)
・実際、戦死者多かった(親子おじおいいとこを戦死させ、記述あり)
・いまだ竹千代君が岡崎へお帰りにならん悲しさよ
このような記述から推測すると、
政務の実務は三河衆が執り行ってはいたが、
経済的なリソース(米(貨幣)・軍役)面では三河は駿河の植民地状態
だった可能性もあるが、三河物語には実際の数字は記述されてないため
そういうこともあったのかも、くらいにしておきますが、
忠義一筋の大久保彦左衛門忠教さまが本に書いてること=松平家の言い伝え
なので当時の家臣全般の気持ちは伝わってるのではないでしょうか。
6 転機❗️
そのように元康さま(家康さま)は基本駿河にあり
今川家の武将として一歩一歩成長していく一方で、
三河に残されている三河譜代衆の苦労の日々。
そんな折、敵陣内(織田方)で包囲されている今川方の城への
兵糧運搬という大きなミッションが元康さま(家康さま)に与えられ
元康さまもミッションをこなし今川家武将として実績を蓄えようと
獅子奮迅に働くまっ只中とんでもない事件が発生❗️
それは歴史的にむっちゃ有名な桶狭間の戦❣️
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