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京都の山々と天狗

京都の北の山々

京都は盆地ですので、山々に囲まれています。とくに北の山々は標高も高く、まさに霊山にふさわしいものです。北東に比叡山、中央に鞍馬山、北西に愛宕山がそびえています。見出しの画像は、渡月橋から見た愛宕山です(出所:ウィキペディア)。これらの霊山は、人々にとって異界であり、天狗のような恐ろしい存在が棲んでいると考えられていました。また、修験道の修行で場であったことも、天狗との結びつきを強めています。

八大天狗

天狗の中でも有力な者は、八大天狗と呼ばれています。

愛宕山太郎坊(アタゴヤマタロウボウ) 京都府(愛宕山)
鞍馬山僧正坊(クラマヤマソウジョウボウ) 京都府(鞍馬山)
比良山治朗坊(ヒラサンジロウボウ) 滋賀県(比良山)
飯綱三郎(イヅナサブロウ) 長野県(飯綱山)
相模大山伯耆坊(サガミオオヤマホウキボウ) 神奈川県(相模大山)
彦山豊前坊(ヒコザンブゼンボウ) 福岡県(英彦山)
大峰前鬼(オオミネゼンキ) 奈良県(大峰山)
白峰相模坊(シラミネサガミボウ) 香川県(五色台白峰)
出所:天狗総合研究サイト https://www.tazunearuki.info/tengu/zenkoku.html

愛宕山太郎坊

八大天狗は、関西を中心に全国に散らばっています。修験道、その中でも役小角との関係性が強いです。このうち京都の天狗は、愛宕山太郎坊と鞍馬山僧正坊です。愛宕山太郎坊は、八大天狗のリーダー格です。下の画像は、太郎坊です。(出所:YAMAP https://yamap.com/activities/102925)

愛宕山太郎坊

平安時代に、愛宕山で天狗の像が祀られていました。この像が保元の乱の要因の一つになっています。保元の乱のきっかけは、いくつもの対立から来ていますが、その一つが摂関家内の対立です。藤原忠通さん、頼長さん兄弟の熾烈な争いが発端となっています。近衛天皇が突然崩御されますが、藤原頼長さんが呪詛したという噂が流されました。口寄せで、近衛天皇の霊を呼びますと、何者かが自分を呪うために愛宕山の天狗の像の目に釘を打ったと語ります。そのため、近衛天皇は眼病を患って亡くなったということです。調べてみると、実際、天狗の像に釘が打ちつけられていました。そして、頼長さんに嫌疑がかけられます。実際、ライバルの忠通さんや信西さんの謀略であると言われています。頼長さんは、そのような像があったことはもともと知らなかったと主張しますが、結局、失脚します。そして、崇徳上皇と組んで、保元の乱に至り、敗れてしまいます。さらに、『源平盛衰記』によれば、安元3年(1177)に起きた火事が、愛宕山の天狗によって引き起こされたとの噂が流れ、「太郎焼亡」と呼ばれたそうです。

鞍馬山僧正坊

鞍馬山も、愛宕山同様、修験道が盛んでした。鞍馬山にある鞍馬寺本堂の本尊は「尊天」と呼ばれています。堂内には中央に毘沙門天、右に千手観世音、左には護法魔王尊が安置されています。この三位一体が、「尊天」です。このうち、護法魔王尊が鞍馬山僧正坊だと言われています。下の画像が、鞍馬山僧正坊です。(出所:刀剣ワールド浮世絵
https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0014010/)

鞍馬山僧正坊

比良山治朗坊

比良山治朗坊も八大天狗の一人です。滋賀県の比良山に棲んでいます。ただ、元々は、比叡山にいて、愛宕山太郎坊と並び称され、やりたい放題でした。しかし、最澄が延暦寺を建立すると、僧侶たちが山にやってきてきます。彼らの法力は強力で、比良山治朗坊は、しかたなく、配下の天狗を率いて、滋賀の比良山に移ったと言われています。これは、修験道と仏教の勢力交代を示しているという説があります。

北の山々と天狗

以上、京都の北の山々と天狗についてお話ししました。北西の愛宕山に太郎坊、中央の鞍馬山に僧正坊、北東の比叡山に治朗坊が位置していたことになります。ただ、比叡山だけは、鬼門であるため、朝廷(延暦寺)の管理下に置かれ、治朗坊は出ていかざるをえなかったのでしょう。

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