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「人が一緒に住めば町ですよっていうのは妄想だ」渡辺利綱前大熊町長に聞く

3月28日、福島県にある大熊町役場本庁舎で吉田淳大熊町長、渡辺利綱前大熊町長とともに、私の地元である静岡のNPO法人「JHP三島桜プロジェクト」の皆さんから大熊町に寄贈された河津桜を植樹しました。

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(左から渡辺利綱前町長、細野豪志、吉田淳町長)

大熊町は3.11被災の中心にある2町のうち先んじて役場機能と住民居住の再開を果たし、駅前の再開発等も急速に進めています。渡辺利綱前町長に大熊町のこれまでとこれからについてお話しを聞きました。

この対話は、2月28日に出版された『東電福島原発事故 自己調査報告』(徳間書店)に掲載されています。

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細野  まずは町長職お疲れさまでした。

渡辺  本当にお世話になりました。

細野  閣僚時代、渡辺利綱町長とは大熊町の避難先だった会津で何度もお会いしました。そして今日はここ、大熊町内でこうして再びお話しできることが本当に嬉しいです。この大熊町大川原地区に役場が戻ったのが2019年の4月でしたが、それに合わせて町長もここにご自宅を建ててお戻りになったんですね。

渡辺  役場の開庁式には間に合わなかったんですけど、町長職を退職する時には自宅は大体できあがっていました。生まれ育ったところで愛着があったので、できるだけ原型を残しながら元の自宅を建て直したんです。中は新築に近いような形になりましたけどね。

渡辺町長1人

細野  大川原地区がこうして復興拠点になったのは感慨深いです。町長は2011年の年末頃にはすでに「大川原地区を復興拠点にしたい」っておっしゃっていましたよね。たしかに大川原地区は比較的線量も低かったし、常磐自動車道ができればアクセスもいい。そういう意味では実際に町内で一番条件がいい地区なんだけど、当時は「いちえふ」が立地している大熊町内にここまでの拠点ができることをイメージできなかったんですよね。

渡辺  やっぱり帰りたい人がいる以上は帰れるようにするのが理想です。我々自治体としても戻りたかった。今戻っているのは大熊町全体の人口の4%ぐらいです。ここはもともと370~380世帯ぐらいの少ない区域でしたから。

細野  大熊町の本来の中心地は「いちえふ」の近くですもんね。

渡辺  そうです。駅を中心とした大野病院があった辺りが旧中心街でしたので。だから、ここは復興の前線基地という位置づけです。

細野  住民の帰還は4%ですけれど、他にも住民票を置いていない原発の作業員の方が結構多く住んでいるんですよね。

渡辺  もともと大熊にいた人っつぅのは(※人というのは)300人ぐらいかな。その他、東京電力の社員寮に750人くらい住んでいます。あと廃炉などで関連企業の方が5000~6000人いますね。だから日中は人が多いですよ。

復興は時間との闘いだという面も強いんです。「いま2年ぐらい(※あと2年くらい)早かったら、もっと町民にも戻る人がいたんだけれど」って言ったら、皆「町長があんまり贅沢言うな」と。「震災直後に我々が来て見た時は、本当に双葉大熊っていうのは人が戻れるようになんのかなって思ってた」って言ってたんだけど。

細野  正直言って私の感覚もそれに近かったですね。先日、開沼(博)さんにこの近くの大熊食堂に連れていっていただいて、美味しい食事をいただきました。

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あの辺りには住宅ができていて、犬の散歩をしている人もいたりして。

開沼  飲み屋もできましたし、これからお店など入った施設ができて住民の利便性もあがるんですね。

渡辺  そうですね。3月までに新しい商業施設ができますし、来年中には交流会館とか温浴施設等もできますから。あと学校はですね。2025年っていう、いま3年、4年(※あと3年、4年)先には公立の幼小中を立ち上げたいって形で計画を練っていますんで。

細野  町民の皆さんのいろいろな思いを背負って町長が大川原地区を拠点にするんだってずっと言い続けられたから、形になったのだと思います。

渡辺  絶えず自問自答してきました。帰りたいって言う人がいる半面、もう大熊には帰れないんだから新たな生活を始めましたって人も半数以上いるわけですよ。「そんな帰れないところに投資するんだったら我々町外に出る人をもっと生活支援してくれ」って声もありましたしね。

大熊町民で良かったっていう実感が得られるような施策っていうのは、口で言うのは簡単ですけれど、難しいですよね。十人十色っていいますか、高齢者と若い人たちで違いますし、男女の考えもまた違いますしね。

細野  双葉郡の町村長さんたちは、原発事故後に住民と難しい関係を抱えておられたけれど、渡辺町長は様々な住民の思いを全部引き受けておられた。渡辺町長で良かったなと思っておられる方が多いと思います。

渡辺  いやー、だんだん落ち着いてきましたけど、最初の体育館に避難した時なんかはもう大変で。唯一の情報っていうとやっぱりテレビだった。最初はそんなに深刻に考えなかったんで、2、3日ちょっと避難すれば戻ってこれるって思っていたら、朝6時前かな、細野さんから電話もらったんですよね。「今、首相官邸で菅総理から避難指示が出たから」ということで。あの時の電話ははっきり覚えているんですよ。今まさに、うちの消防の人に炊き出しをお願いして、体育館とか学校に避難した人に食事を提供しましょうって時でした。

細野  そうしたら、今すぐ避難ということになった。

渡辺  とにかく、もう西のほうにってことで。

町長の立場から解放されたい気持ち

細野  本当に大変な思いをされたけれども、町長はそれから会津に大熊町の拠点を構えられましたね。

渡辺  初めの避難先は船引町(田村市船引町)の体育館でね。体調崩す人が体育館の中じゃ結構出てきちゃって。じゃあ次どこにお願いするかっていう。お世話になった三春町とか船引町とか、近隣の町村では「学校施設が空いてるんで、どうぞ使ってください」って言われたんだけれども、やっぱり人口1万人全部が行くんでなくても、町を受け入れるんならある程度のキャパがないようではだめなんでね。

そこに100㎞圏内は危険だというアメリカの情報が入ってきて、ある程度距離があって医療機関がしっかりしてるところを探すことになった。あの時は町村がそれぞれに判断せざるを得なくて、会津にお世話になりますってなった。震災直後でやむを得ないとしても、国が避難先を紹介してくれれば良かったのかな。

平野(達男)復興大臣のところに行った時に、「町長申し訳ない」と。地震と津波だけでも大変なのに原子力災害っていう未曾有の大災害で、もう精一杯やっているんだけど、皆さんの思いや期待に沿えなくて申し訳ないって頭下げられた。そうしたら文句言えないって感じで、言うこと半分にしながら、「いやー、とにかくよろしくお願いします」って言ったんだけど。確かに現実そうだったからね。国も前例があれば対応もスムーズにいくんでしょうけれど、こんなこと今までありませんでしたから。

細野  町長は優しいですよね。確かにアメリカで言われたのは、ロサンゼルスの地震とカトリーナのハリケーンとスリーマイル島の原発事故がいっぺんに起こったようなものだと。その中で日本は頑張っているということでした。

ただ、それは政府側の理屈であって、大熊町の人からすれば、ある日、原発が爆発して着の身着のままで逃げろと言われて、帰ってくるのに8年以上かかった。それは大変な被害ですよ。本当に我慢強く堪えていただいた。今、こうして町を復興しようとしていることは本当に尊いことだと思います。

渡辺  8年半を振り返ると、多くの人に支えてもらった。戻っている町民もそうですけども、職員も議員も一つの目標に向かって心一つにして取り組んだ。あとだから言えることですけど、むしろ充実した日々だったという思いもあります。皆さんにお世話になりましたからね。

細野  本当にお疲れさまでした。途中で町長職を退きたいと思われたこともあったでしょう。

渡辺  解放されたいっていうのは何回もありましたね。富岡の遠藤勝也町長が選挙に敗れた時に、首長何人かで「慰労会やっから」って言ったら、「そんなのはいいんだ、皆忙しいんだし」って言われたんだけれども、結局5人ぐらいでやったんだっけかな。その時に遠藤町長が「皆には申し訳ないんだけれども、ホッとした」って。

細野  私も同じ頃、富岡の遠藤町長ご夫婦と食事したんですが、「これでようやくかみさん孝行できる」と言っておられました。その後、あまり時間をおかずにお亡くなりになった。あれは悲しかった。

渡辺  本当に早かったですね。

帰る帰らないは住民一人ひとりの選択

開沼  原発事故の直後は町に戻るとは言いにくい空気だったと思うんですよ。大熊町や双葉町は何年も帰れないんだとか、国が買い上げたほうが合理的なんじゃないかとか言う人が住民の中にいただろうし、県内外でも多くいました。実際にチェルノブイリでは人が戻らなかった事例もある中で、よく戻れたと思います。

渡辺  2期目の町長選挙の時、もう一人の候補は「新しい町を作りましょう」って言ったんです。マスコミさんがだんだんエスカレートさせて、「戻るか、新しい町を作るか」って対立軸を鮮明に描いたんですね。

相馬藩には野馬追に象徴されるように1100年の歴史があって、6万石ほどの小さな藩だけれどもずっと残ってきた。千年の歴史の中でお互い協力し合った積み重ねがあって初めて文化が栄えるわけですよ。そんなに簡単に人が一緒に住めば町ですよっていうのは妄想だっていうのを私は言ったんですけど。

細野  2011年の年末、政府は一定以上の空間線量となった地域に「帰還困難区域」という名前をつけたんですよね。

帰宅困難地域

私もそれを決める場面に居合わせて相当悩んだ。しかし、少なくとも5年以上帰れない場所についてはそう明言し、住民の皆さんに選択肢をお示しするしかないということに決まった。つまり、戻る人は戻る、戻らない人はどこかで新しいスタート切ってもらうしかなかった。

その中で、こうして戻るという選択をした町民がこれだけ出たのは、やはり町長のリーダーシップだと思います。ただ、その町長をもってしても、当初考えていたより2年くらい遅れたとおっしゃっていましたよね。

渡辺  コンセンサスを得るのが難しいというのはあります。役場庁舎一つにしても、「戻るかどうか分かんないところに投資をしてどうするんだ」っていう意見もあります。それもひとつの考え方ですよね。私としてはやっぱり一歩ずつでも、長い時間かかっても、という形でやったんですけど、「帰る人が少ないところに、なぜ除染等の膨大な経費をかけるんだ」と、露骨に言う人もいますから。

でも、それは違うでしょう、原状回復っていうのは基本でしょうと。帰る帰らないは住民一人ひとりが選択するんであって、まず国とか東京電力の責任できちっと元に戻そうとするってことが大事でしょって言ったんだけどね。

細野  除染は帰還においてどういう位置付けになりましたか。2011年に福島県から自主避難する人はかなりいた状況もありましたし、除染には「それをすれば住める」という希望と安心をもたらした部分もあったと思うんですよ。それで、「除染しますから大丈夫です」と言うために厳しい基準が必要だとの大議論をして、結局、1mSv年間追加線量という高い目標を決めたんですね。

しかし、安心してもらうためとはいえ、実際の安全に関わらないほど厳格な目標を掲げた弊害として、「1mSvまで下がらないと帰れない」とか、「ちょっとでもその数値を上回ったら健康被害があるんじゃないか」と誤解された部分もありました。除染には功罪を含めて様々な面があったと思うんですけれど、町長は今、10年間を振り返ってどう思われますか。

渡辺  この辺なんかも瓦一枚一枚拭いたりね、いろいろ細かくやりました。放射線量を下げる特効薬がなければ、そういう方法に頼らざるを得ないのが実状なんでしょうけど、お金がかかりますよね。だけども、やっぱり除染をすれば確実に線量は下がりますから、除染をして帰る環境を作るのが基本だと思います。

「阪神淡路の時には5年間でだいたい大きな道筋をつけられた。自然災害が多い中で福島だけ特別扱いはできない」なんて言う国会議員の先生もいるんだけど、国にも大きな責任があった事故で、国がその片付けすらほとんどしないで放り出すのは、それは違うんじゃないかなって感じもする。やっぱり除染をして帰る環境を作るっていうのは大事かなって思うんですけどね。

細野  開沼さんは楢葉町で帰還の議論に入られましたよね。

細野開沼

開沼  そうですね。1ミリの目標以内に抑えるのが短期的には難しい自治体は、すでに帰還している他の自治体とは違う困難さがあったと想像します。やっぱり1ミリの縛りを意識されましたか。

渡辺  そうですね。飯舘の菅野(典雄・当時)村長なんかと話すと、それぞれの町村が独自の線量基準を設けて、町民村民の帰還を促すような制度を作ったほうがいいんじゃないかって言われた。ただ、現実的には「1ミリ」っていうのがみんなに定着してますから。

「細野大臣が5ミリくらいにって言ってくれれば、帰還までにかかる時間がずいぶん違ったんだ」って言い出す人もいたんだけれども、今になって線量を変えるっていうのは現実的ではないと思います。逆に線量の基準を緩めて帰還を促しますってことになると、「なんでそこまでして帰そうとするんだ」って声が必ず出てきますからね。

細野  出てきますね。

渡辺  帰還や線量には賠償も絡むんで、「もっと東京電力からお金をもらってくれ」とか露骨に言う人もいますからね。いろんなものが複雑に絡み合っている。

細野  難しいですね。大熊町の中にはまだ帰還困難区域もあるわけじゃないですか。そこに帰るのに1ミリっていう目標をすごく意識をされるか、もしくは1ミリは健康影響とは直接関係ないから、引き続き除染は続けるにしても戻ろうじゃないかって雰囲気は出てきますでしょうか。

渡辺  その辺がなかなか難しいですね。私なんかも発電所立地の首長として、安全神話を過信しすぎた反省はものすごく大きいんです。だいたいどの程度の線量が日常生活の上での許容範囲なのか。国際的な基準なんかも含めて子供のうちからだいたい自分でそれぞれの町民が判断できるという、一つの目安を確保できるような教育や知識を普及させておくべきだったなあって反省しているんですけれど。

「第二のつくば」を目指す道筋

細野  原子力はかつて「夢のエネルギー」と言われ、大熊町はそれとともに歩んできたわけですよね。ただ町長になった時から、ポスト原発も考えなければならないと思っておられたと聞きました。しかし原発事故が起こり、大熊町は廃炉の拠点となった。依然として否応なく原発とは付き合わされているわけですよね。この町にはそうした姿と、同時に理想の未来像を描いたイノベーションコースト構想を抱く一面もある。この辺は非常に複雑な想いと状況を抱えていると思います。

渡辺  そうですね。そういった点では、大熊町は近隣町村ともまた違ったところがあります。大熊町は原発ができたその時から、東京電力との共生を40年続けてきましたからね。仕事仲間みたいなところもありました。だから、よく行政区の集まりに行って町民の方の声を聞くと、「いやぁ町長、東電の人も謝罪に来たけれど、我々も世話になってきたんだから、あんまり責められないんだ」と言う人もいる。マスコミ関係者と話しても、富岡、双葉、大熊町あたりの町民は東電に対して寛大だなって言うんです。確かに40年間のいろんな歩みは大きいですね。

開沼  双葉郡はもともと過疎の地域で、出稼ぎに行ったりする人も多かった。そこに原発ができたことで断続的に数千人規模の雇用を生み、定期点検をはじめ、地域の仕事を安定させた。今も第一原発はそれなりに頭数が必要な作業が発生しているものの、第二原発は廃炉で雇用が少なくなってどうするのかという部分はありますね。ただ、原発がなくなったあとの地域の雇用については、3.11前から入念に考えてらっしゃったと思いますし、今後はより考えなければならないと思います。

大熊町はイノベーションコースト構想などを進めてこられたし、新たにイチゴを作ったりもしておられる。

いちご大熊町

町長職を退かれるにあたっては、こうした町の方向性、前提を整えてやめられたという満足感があるのか、それとも、もっとこういうことをやるべきだったとの心残りが大きいのか、今の心境としていかがでしょうか。

渡辺  やめると見えてくることもありますね。現職時代、もっとこういうことをやっておけばよかったんじゃないかっていう反省もあります。原発事故がある前は、ベストミックスの形で水力から化石からっていう形で、日本はそういう点ではバランスとれてるかなって思いもありました。原子力発電所はもともと過渡的エネルギーということになっていたんです。いずれ原子力から脱皮して、新たなエネルギーを求めていかなければならない。国の支援制度なども活用して、今後あるべき町の姿を模索していきましょうってところでスタートしたばっかりだったんですけどね。

細野  これから国に頼らない、原発という単独のものに頼らない自立した大熊町、そして双葉郡っていうのを作っていかなければならない時代に入りますよね。

象徴的だと思うのは中間貯蔵施設です。あそこへのフレコンバッグの運び込みが2021年度で終わると、それに関わってきた運送とか建設業とかで仕事が急激になくなっていくんです。さらに長い目で見ると、これからは復興関係の予算も減っていきます。その時にきちっとこの地域が自立的にやっていけるような産業を、どう作っていくのかという課題は残っていますよね。

渡辺  そうですね。我々よく思うんですけど、最後は人づくりなんですね。人材育成にお金をかけていくっていうか、そこに投資していくかだと思うんですね。震災直後に、これから双葉郡って大変ですよってなった時に、「第二のつくばを目指します」「双葉郡で教育に集中的に力を注いで、ノーベル賞候補者が出るくらいの環境を作りたい」っていう話を、当時の内堀(雅雄)副知事としたんですよ。

細野  第二のつくばっていいじゃないですか。イノベーションコースト構想もありますし、国際教育研究拠点はどこに作るかという問題もあるんだけれど、双葉郡全体を拠点にするぐらい広く構えるといいと思いますね。

渡辺  大事なことだと思うんだよね。

細野  先日、開沼さんと中間貯蔵施設を見に行ったんです。今は大熊町の7分の1くらい、かつては何千人もの方が生活しておられた場所に作られた、広大な面積を占める迷惑施設という位置付けにされています。

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しかし、今やあの場所はすごく安定していて、放射線管理すらも必要ない状況になっている。視点を変えれば、いろいろな可能性があるんじゃないかと思うんです。中間貯蔵施設としての残り25年の間も、様々な活用や計画は進められるじゃないかなと。例えば、しばらくの間、バイオマスのエネルギーの拠点としていろいろな植物を植えるような方法もあるし、工芸作物みたいなものだって量産できるかもしれない。あれだけ安定的な場所で管理ができていて、まわりに家がないということは騒音問題がない。将来的に中間貯蔵施設としての役目を終えたあとには、宇宙産業などを誘致するなどの可能性もある。

渡辺  自民党の大島理森先生も「町長、あそこの土地を有効活用して、国際サッカー場でも作るか、それとも巨大な公園でも作るか」って。30年となるとすぐですからね。双葉郡全体が恩恵を受けるようなかたちを、今からしっかり検討して取り組むべきだと思うんですけどね。

この地域の人たちが夢を持てるような、希望につながるような施設ができればいいなと思います。残念ながら線量との関係も含めて、双葉郡内でも復興の度合いや考え方に町村それぞれで違いが出ていますけどね。こういう時だからこそ、逆に一本化して、双葉郡全体をどうするべきかという議論をしていかないとだめだと思うんです。やっぱり、それぞれで俺が俺がって我田引水になっちゃうと、自分たちの首を絞めるようになっちゃうから。

中間貯蔵施設を受け入れるということ

細野  私も最近気になりだしているのは、双葉郡や浜通りの中でも地域ごとにかなり温度差が出てきていることです。例えば、除去土の再利用にはいろいろな動きはありながらも、なかなか実現できない。あとは処理水。現職の吉田(淳)大熊町長は、あそこにあの状態で保管し続けるのはもうだめだ、何らかの決断をしてくれと言っています。ただ、福島県全体では少なくない人、特に漁業に関わっている方は海洋放出に強く反対している。

渡辺  トリチウムの問題なんかも、せめて双葉郡くらいは一本化して対外的にこうですって言う必要がありますね。双葉郡全体として良くなるためにどうするかっていう議論をしてもらいたいです。私と双葉町の伊澤(史朗)町長とは共に中間貯蔵を受け入れた仲で一蓮托生みたいなところもあって、いろいろ本音で話してきましたからよかったんですけどね。

細野  伊澤町長と渡辺町長で決断したんですものね、あの時。

渡辺  そうです。楢葉町もほんとは一部引き受けるってことだったんだけれど。

細野  廃棄物施設は楢葉、富岡にもいろいろな役割分担をしていただきましたが、中間貯蔵施設については最終的に2町で決断をしていただきました。

渡辺  当時は楢葉が帰還を目指し、そのための環境作りを一生懸命やっている時でした。そこで、少しの量を楢葉に置いて水を差すくらいなら、双葉大熊で最初から全部引き受けましょうと。だから、楢葉は楢葉で別の感じで頑張ってくださいよってことで。そっちのほうが双葉郡全体での利益を考えた時にはやっぱり正論ですからね。

細野  そうやって受け入れていただいた、その気持ちに応えなきゃならないですよね。ですから、この地域を中間貯蔵施設の利用や土地利用に関しても含めて、本当にいい場所にしていかないと。

渡辺  それには、受け身でなくて能動的に自分たちが考えてね、特に大熊の名前を変えたらどこにでもあるような金太郎飴のようなまちではだめなんだと思います。状況を一番知っているのは町の職員なんだから、国にちゃんと言うべきことを伝える必要がある。なのに「国から言われました」ってすぐ帰ってくるから、それじゃだめだって言うんだけど、職員なんかも弱いんだな。国だって頭の固い人ばっかりじゃねえんだから、ちゃんと事情や心情を伝えると一生懸命努力してくれるんだから、ぶつかって懐に飛び込んでけって言うんだけど。

細野  自治体が単に要望するだけじゃなくて、具体的なビジョンを持ってこれをやりたいからどうだって突きつけられると国もやっぱりそれは考えますよ。そこだと思いますね。これまで苦しい10年だったと思うんですけど、これからはどうマイナスをなくしていくかじゃなくて、いかにプラスを積み上げるかを議論する段階に来てると思うんですよね。そういうのは、国がこれはどうですかあれはどうですかって提案してもうまくいかない。ビジョンが地元から出てきた時に初めて形になっていくといいますか。

渡辺  大熊なんかは、今までの既製のインフラ、社会資本があるのに、使いこなせていないところが結構ある。新たなキャンバスに自分の思い通りに絵を描けるっていうのは特権でもありますからね。だからそういう点では50年先、100年先にこういう町を目指しますっていうようなもの、そういうビジョンっていうか夢をもって当たれば、これはまちづくりをやっていて面白いでしょうっていう。大変なんだっていう点じゃなくて、楽しみがあるんだ、自分たちが絵を描くんだから頼むぞって言うんだけど。

突出した人材が出ることを期待する

開沼  この地域の一番のキーポイントは、人がどう育っていくかだと思います。大熊町は事故の前は原発があることで国と向き合ってきた経験はあったけれども、それどころじゃないタフな向き合いを3.11後には求められた。今後はいわゆる合併論も関わってくると思いますけども、人口が減っている中でそうした担い手がなかなか出てこない環境かなと思います。

渡辺町長の場合、過去に一度、町長を辞めたいとの意向がメディアで報道されたあと、結局もう一期続けたという経緯もありました。町長を引き継ぎたいタイミングでしかるべき人に引き継げなかったという事情もあったんでしょうか。

渡辺  職員にも、「いろんなこと俺なんかより良く知ってんだから、どんどん持って来い」って言ってたんですよ。失敗してもそういうのは次につながるんだから出し惜しみをすんなよって。最後に責任とるのはトップなんだからやりたいことやれっていうんだけど、なかなかやっぱりそういうのはできないんだ、職員の人は。ボトムアップは理想だけれども、それを待っているんじゃ何も動かないっていうのが現実にあった。

それでも職員が本当にやる気あったならば、人口一万の町なんていうのは町長と議会がある程度うまくやっていると意思決定は早いですから。町長が「よし来い」っていうと、議会も「よし協力する」って感じで、やる気になればできる環境にあるんです。ここ何年かのうちに大きな方向性を出して、みんなで協力してやっていける状況を作ってもらいたいなって思っているんですけどね。

細野  福島の高校生と話すと、あの時、小学校の低学年くらいなので原発事故の時の記憶はおぼろげなんですよ。「過去をどう取り戻すか」ではなくて、「これからどう行動するか」がより重要ですね。以前のことを知らないだけに、新しいものを創っていこうって発想する世代が出てきますよ。彼らをまちづくりに取り込むことは良いことだと思います。

渡辺  そうですね。大人だけじゃなくて子供たちが生き生きしているっていうのは、俺らにも救いになるってよく話しています。いろいろな人に出会って刺激を受けて、子供たちにとってはむしろ環境が良くなったって。最初は埋没しちゃうんじゃないかなと正直思ったんだけど、少ないなりに存在感を示して堂々と頑張っている姿っていうのは本当に元気付けられました。

細野  こういう課題が多い場所だからこそ、突出した人材が出てくると思いますよ。

渡辺  そういう点では期待して見守っていきたいと思っていますけどね。

細野  ぜひこの場所にどんと構えていただいて、大熊町と双葉郡全体に睨みを利かせてください。 

渡辺  やめたら余計なことを言わないってことが大事だと思います。老婆心ながらなんて変なこと言って憎まれるよりは、距離をとって見守っていくっていうね。役場から近いから、結構いろんな人が来ます。先日、参議院議員の増子輝彦先生が来てくれました。私が覚えてるのは、民主党政権の時に増子先生が「細野さんに代表選に出てくれって町長から電話してくれ」って言うんですよ。経済産業副大臣の時、地元のためにいろいろやってくれた増子先生の言うことは聞かなきゃいかんと。

細野  2012年9月の代表選挙です。そんなこともありましたね。

渡辺  あの時、細野さんに総理をやってもらえばよかったんだよなんて。

細野  あの時は政権の中にいて、復興に関わることで精一杯だったんですよね。3.11の経験があって、いろいろ考えた末に私も新しいスタートを切りました。

渡辺  ご苦労多いでしょうけど、まだ若いから期待していますので頑張っていただきたい。

細野  最後は町長に励まされてしまいましたね。ありがとうございます。

渡辺町長3人


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衆議院議員。危機管理(災害・軍事・環境エネルギー・経済・憲法)を最大の政治テーマとする。『東電福島原発事故 自己調査報告』(徳間書店)を出版しました。趣味は囲碁、落語。静岡5区。