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擬人化の相性

擬人化について。


遅ればせながらウマ娘プリティダービーを視聴した。
ネタバレは極力避けるが2期のラストはもうボロ泣きだった。

ウマ娘とはその名の通り、競走馬を萌え擬人化したマルチメディア作品である。容姿、体格だけではなく性格に至るまで、実在の競走馬の特徴が忠実に反映されている(らしい)。史実に基づくマニアックな小ネタがあったりで従来のゲームファンだけのみならず、古参の競馬ファンも楽しいギミックがいろいろと仕組まれている(らしい)。

ストーリーとしてはギスギスする展開があったり、暗い展開が続いたりと通常の萌えアニメならば叩かれる要素が満載なのだが、当該クールの覇権といわれるまでの大成功を収めた。

このような攻めた展開であったにも関わらずそれが批判につながらなかったのは歴史的事実という堅強な盾によって守られていたからだと思う。競走馬の名前を受け継いだウマ娘たちは、ストーリーの中で史実の競走馬の運命をなぞる。その栄光の裏には、度重なる不運があり、挫折があり、転落があった。どんな人の人生も、馬の馬生も栄光だけ、楽しい部分だけではない。最後は全てがうまくいく、出来すぎたストーリーだったにも関わらず違和感なく受け入れられたのは史実を忠実になぞったことと無関係ではないだろう。

こうなると俄然他の競走馬の物語にも興味がわいてくる。
調べてみると競走馬にフォーカスした書籍というものが意外と多いことに気づく。まず読んだのは渡瀬夏彦氏の「銀の夢」である。葦毛の怪物と呼ばれ多大な人気を誇った馬、オグリキャップの周辺を取材したルポタージュだ。競馬に詳しくもなく直接の世代でもない私だが、それでもキタサンブラック、ディープインパクト、ハイセイコーと並んで名前くらいは知っている競走馬だった。まず、競馬という文化は実に多くの人々によって成り立っていることに驚く。競馬というと馬本人(?)、騎手、馬主、観客といった要素がまず浮かぶが、それ以外にも馬の繁殖を行う繁殖牧場主、馬の蹄鉄を装着する装蹄師、普段の馬の調教を行う調教師(これまでは騎手が調教を兼ねるかと思っていた)。その下で広く馬の世話をする厩務員、そして実況アナウンサーに記者、実に多くの人を巻き込んだ興行であることを知った。そして、馬を介した様々な思いの交錯が克明に描かれる。オグリキャップは地方競馬上がりなのだが、地方競馬と中央の複雑な関係性であったり、複数人の騎手を乗り替わっているのでそれぞれの思いであったり、大スターオグリキャップに以下に太刀打ちすべきかに頭を悩ませる敵陣営であったり、多くの人間を巻き込んで無数のドラマが展開されていた。面白いことにオグリキャップに関わった人間全員が口を揃えてオグリキャップは可愛い馬だったと言う。人間と馬、種族を超えた確かな愛の物語は関係者を超えて当時の民衆の心を動かし、一大センセ―ション巻き起こしたのは想像に難くない。

その勢いそのままに、軍土門隼夫氏の「衝撃の彼方 ディープインパクト」を買ってしまった。そしてゲームアプリ版のウマ娘も始めてしまった。

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サブカル界隈では何年か周期で擬人化というものが流行る。

ヒット作を挙げれば、国家を擬人化した「ヘタリア」、大日本帝国艦艇(近年はその限りではないが)を擬人化した「艦隊これくしょん」、刀剣を擬人化した「刀剣乱舞」、動物を擬人化した「けものフレンズ」、銃を擬人化した「ドールズフロントライン」などなど。例を挙げればキリがない。

これ以外にも様々な擬人化がなされてきたが、これら一大ヒット作とその他の作品との最も大きな違いを考えたとき、重要な要因として元ネタとなる事物の背景の重層さ、つまりキャラクターが背負うものの重さにあるのではないかと思うのである。

けものフレンズを除けばみんな相当な重いものを背負っている。

ヘタリアの国家たちは国家として一国の歴史と民草を背負う(とてもそうは見えないが、、、)。

艦これの艦娘たちは第二次世界大戦という激動の時代を最前線で駆け抜けた艦艇である。常に生と死の狭間で国家の勝利のために尽力した人たちの必死の精神を受け継いでいたり、いなかったり。戦況を反映した特殊な使用を持つもの、個性的な艦長を持ったもの、幸運に恵まれたもの、不幸に取りつかれもの。膨大な背景が彼女たちの装いや言動に見え隠れする。さらに、ゲームシステムとして轟沈という、これまで育てたキャラクターがロストしてしまうというシビアなシステムは賛否含めて大きな反響を呼んだ。

刀剣乱舞とドールズフロントラインはいずれも戦争、戦場で人を殺すための武器、兵器が元ネタとなっている。こちらも時代やお国柄、戦況を色濃く反映している。

そして重要な要素がもう一つ。これらの背景を緻密に、正確に反映して、その元ネタをうまく散りばめることだ。気づく人は気づくような意味深な発言や装いがマニア心を擽る。この手のゲームの攻略スレには必ず考証班のようなマニアの方々がいて、ゲームからとっついた俄か達に遺憾なくその背景=元ネタを披露してくれる。熟練のマニアも俄オタクもこの手のマニアックな情報が大好きという点でつながっている。おかげで下手な列伝本よりも読み応えのある文章となっている。これは艦これの例になるのだが、艦これに新たな艦艇が実装されたところ、一夜にしてwikipediaにハイクオリティな記事が作成されていた、なんてことがあった。

この調べたくなるようなオタク心を擽る背景というのが重要である。気になって調べるとそのキャラクターだけではなく世界情勢や、思想といった強大なバックボーンが入ってくる。知れば知るほどそのキャラクターのことが好きになっていく。また、その中で別キャラクター(事物)に興味が出てくる、そのキャラクターについて調べるとさらに世界が広がる、その中でまた好きなキャラクターが出てくる、といった循環、いわゆる沼に陥る。この沼はバックボーンの大きさに応じてどこまでも深くなる。


ただし、メディア展開においてはこのコンテンツの深さと重さがあだとなってしまうこともある。

アニメ 艦これがその好例である。

艦これの場合、元ネタの背景は第二次世界大戦における日米海戦である。
史実を辿ろうとするとほぼすべてのキャラクターは死亡してしまう上に、味方陣営の完全敗北という暗いストーリー展開となってしまう。しかし、下手に歴史のifを描こうとすると当時実際に関わっていた人たちの反感、果ては政治的な歴史問題など、娯楽を超えた世界の琴線に触れてしまい兼ねない。個人的な同人活動ならまだしも、日本全国を流れる可能性のあるテレビで放送するのはリスクが大きすぎるだろう。歴史をなぞらない路線で行くと、オリジナルの世界観を形成する必要があるが、この世界観の設定が難しい。元ネタは史実としてすでに存在している訳なので、その時代背景と全くの無関係ではいられない。その上でオリジナルの設定がうまく生かせるようなシステムに落とし込まなければならない。艦これは全てが中途半端だった。敵との戦争を介した主人公の精神的成長がストーリーの基本的な軸なのだが、世界観が曖昧であったために肝心の戦争の目的が全く分からなかった。具体的な作戦も到達目標も示されず、上からの命令でただ戦うだけ、勝った負けたで一喜一憂という展開が延々と繰り広げられる。戦争の大局観であるとか、陣営間の思惑、戦略、思想といったストーリー上の奥深さという醍醐味が完全に機能していないだけでなく、各艦艇の辿った運命、性能上の特徴という擬人化の強みがとことん反映されていなかった。更に、このように設定が曖昧にもかかわらず中途半端に轟沈というシビアな要素を盛り込んでしまったため、人が死んだときもただ死んだだけというように映ってしまった。(後に劇場版で回収されたが)

このように擬人化物は史実をなぞるにしても、オリジナルの設定を練るにしてもストーリーを作るのが非常に難しいという印象を受ける。


そこでウマ娘である。

前述のように競走馬には十分すぎるほど深い背景がある。そもそもが国営事業であることから興行としての歴史も古い。そして馬主、調教師、騎手、体調、血統、天候、距離など、レースを形成する要素の多さである。これらの要素が複雑に絡みあうためレースの予測が難しい(だからこそギャンブルとしての体を保っているのだが)。この複雑性がレース考証の難しさと深遠さ、ひいては面白さを与えており、調べる楽しさを与えてくれる。さらにこれらの要素が複雑に絡み合うことで引き起こされた予測不能な数多くのドラマがある。サイレンススズカの「沈黙の日曜日」であったり、ディープインパクトの天皇賞、オグリキャップの有馬記念など例を挙げればキリがない。また、競走馬として走れる期間は長くても5年、まだまだ走れるうちに引退させることが多く馬の一生を描く必要がない、つまりは有名なエピソードだけを拾いやすいという利点がある(これは轟沈エピソードとは切っても切り離せない艦これとは対照的である)。そして関係者が存命であることが多く、きちんと許可を取ることで現実世界とリンクしたメディア展開、更にストーリー監修を受けることができる。正に擬人化するのにうってつけな題材であったのだと思う。


。。。


事実は小説より奇なりとはよく言ったものである。史実には小説や漫画といった虚構とはまた違った魅力がある。そこにあるのは圧倒的な説得力。なぜなら過去に、現実に、実際に起こったことであるから。そんなわけで今回は、現実の説得力をいかに生かし切るかというのが擬人化のミソなのかなぁなんて結論が出た。

(あと話し忘れたが、当然これは全部設定を緻密に盛り込んだキャラクターがあって初めて成り立つものである。これを抜きにしてはなにも起こらない。)

それでも個人的には擬人化は大好きである。
本来心を持たなくても、喋れないものにも命を吹き込み、心のままに話すことができる。本来人間が喋れないものと喋れるようになるというのは、例えば愛犬と喋れるようになるなんてことは、私だけに限らず、人類の夢なのではないだろうか。やっぱり好きなものとは話してみたいし気持ちが知りたいと思うのが人情だろう。それを空想上とはいえ叶えてくれるのが擬人化なのである。


思いの外長い文章になってしまったが、最後に前述の「銀の夢」から厩務員 池江氏の言葉を引用して締めたいと思う。

(オグリキャップ、89年の有馬記念の大敗について)

「そうですねぇ。あの時は、やっぱり疲れが残っとったと思います。
               中略
それであんなに激しいレースをして、疲れが出ないはずがないですわね。 でもね、そのあとも飼い葉はよく食うしね。飼い葉桶を洗わんでもいいくらい、ピッカピカになるまで平らげよったからね。寝藁でも新しいものは食べてしまうくらいでねぇ。体温も安定してるし、不調は少しも感じさせなかったですよ。それでもやっぱり疲れとったはずです。オグリが口を利けて、疲れとるなら疲れとるっていってくれたら助かるんやけど、いつも元気いっぱいにみえてねぇ・・・・・・」

(銀の夢 オグリキャップにかけた人々、渡瀬夏彦、講談社文庫、1996年より)


終わり
(4488 文字)

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