見出し画像

老いていく者に私たちはどれだけの時間を掛けるべきか

介護をしているとふと感じる。
私の今費やしているこの時間は、新しいものを生むことができない。
仕事をすることができないということは、直接的にはお金を稼ぐことができないという意味である一方で、本質的には、新しいものを生みだすことができない、経済活動ができない=日本の発展に貢献することができない、という意味を持つ。
私は、私の持っている限られた時間を、新しいものを生みだし、日本を発展させるためでなく、老いて死にゆく者が、快適に余生を送るための、言ってしまえば何も生み出すことのない時間に費やしている
言葉を選ばずに言うと、そういうことになると思う。

しかし、そこには大切な家族の時間がある。
働けなくても、稼ぎを犠牲にしても、大切な家族のためにしてあげたいことがある。
それに、人間は平等に年を取る。人間の終末にみんなが無関心になれば、社会の秩序は保てない。人知れず亡くなっていく者の始末や、犯罪の増加、将来への不安などから、壊滅的な状態になるだろう。

全国で、介護従事者の不足が問題となっている

人材不足を解消するため、国や自治体は資格取得に際し、様々な助成金制度を実施している。
実は私も、今月末から「介護職員初任者研修」を受講する予定である。
受講に当たって授業料を抑えるため、様々な学校を調査したが、中には本年度中に介護職に就くのなら、受講料がゼロになるという学校もある。
人材の確保が求められているとは知っていたが、そこまでとは思っていなかった。

高齢化→介護人材の不足→介護職員の増加

これが今の日本の当然の流れである。
しかし、介護に従事する人たちの割合が増えるということは、少子化によりただでさえ急速に減っている生産年齢人口のうち、他の分野の人材の割合を減らすことを意味する。
新しいものやサービスを開発し、売ることで経済は発展し、日本は豊かになっていく
もちろん、介護分野が産業の発展に寄与していないと言っているわけではない。
効率的に介護を行うための器具やシステムの開発など、高齢化が進む日本だからこその経済発展に期待している。
しかし、おむつを替えている時間、痛む体を揉んであげている時間、そばにいて何度も同じ話を聞いてあげる時間に、生産性はあるのだろうかと考えてしまう。

介護は突き詰めればきりがない

父は言う。
「ショートステイに行くと、夕飯が17時で朝食が8時。夜中におなかがすくのに、間食は持ち込み自体が禁止されている」と。
「でもそれは、夜勤の職員の人数が少ない中で、誤嚥などの事故が起こらないようにするには仕方のないことだよね?」と私。
「でもお腹が空くんだ」
「わかるけど、おやつを食べさせるために人件費をかけるとしたら、誰かがそれを払わなくちゃならない。もし一日中誰かにそばについてお世話をしてほしいなら、その人の生活を支えるだけのお金を払わなきゃいけない。それに、人の時間を拘束するということは、その人が他に何かをする時間を奪っているということになるよね」

人生にゴールなんてない

「定年したら、老後はゆっくり」
なんてまやかしに過ぎない。
あんなに一生懸命に働いたのに定年後も働かなくてはいけない、年金だけで食べていけない、そういった声をたくさん聞く。
でも、そもそも「定年したら働かなくても誰かが面倒を見てくれる社会」を思い描いていたことが間違いではないだろうか。
人生を終えるまで、最後まで努力して生き抜かねばならない。
自然界ではごく当たり前のことである。
悠々自適な生活など、どの時代にも存在するはずがない。
誰かに世話をしてもらい、ゆっくりのんびり生きられる生活とは、生産活動に回すべき誰かの時間を、老いていく者の世話をする時間として奪い取っているに過ぎない。
介護をする者が増えるということは、生産活動をするものが減るということを意味する。
日本人の約三割が高齢者となり、その世話をするために生産年齢人口のうちの何割かがとられるとして、そうなると、日本の産業を発展させるために働く人々は、どれだけの割合になるだろう?

介護は美しいことである

介護は家族の、人間の幸せな時間だと思う。
父とできるだけ家族としてともに時間を過ごしたいから、母親の強い希望もあり、要介護5になっても在宅介護を続けている。
でも、皆がそういった内側の活動に労力をかけたなら、日本の成長はどうなってしまうのだろう
私が父の介護をしている間、娘は保育園にいっている。
私が持っている限られた時間を、将来を背負う娘の世話でなく、老いていく父の世話に使っている。
これが正しいことなのか、時々わからなくなる。

「姥捨て山か」

私の考えを話したら、父が言った。
「食事をしていると、死にたいとまでは思わないが、何の意味があるのだろうと思うことはある」
老いていく人々のために、私たちはどれだけの時間を割くべきなのだろう。
彼らの快適性を追求したら、きりがない。
あれが欲しい、これがしたい、何処に行きたい、何してほしい、
できるだけ要求に応えれば、介護としては素晴らしいものになる。
でも、そこに私たち生産年齢人口の労力をかけることが、果たして正しいことなのだろうか。
私たちはもっと、これからの社会のために、次世代の育成や、産業の発展に力を注ぐべきではないのだろうか。

経済の発展あって、福祉の充実が成り立つ

私たちは決断しなければならない。
衰退していく社会の中で、福祉が拡充できるはずもない。
日本人が考え方をシフトし、まず今何を優先すべきか、考える時が来ている。
高齢者福祉を充実させる前に、それを支える力=出生率の増加や経済発展に力を注ぐべきではないだろうか。
生産年齢人口は多額の税金を支払いながら、子供を持つことも難しい社会の中で辛抱している。
高齢者の「夜中におやつが食べたい」よりも、優先して解決すべき課題があるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?