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オリンピック見るくらいなら、君とベッドもぐる

恋人のような女の子が、いた。恋人ではなかった。あくまで、恋人のようであって、ように過ぎなかった。けれどもあのころ、僕は彼女がいなかったら、この東京という街でやっていけなかったと思う。


ちょうど次のオリンピックの開催が日本に決まったころ、僕はよく彼女と遊んでいた。彼女はネイルの専門学校に通っていて、僕の狭いアパートに来るたび、手の指から足の指までネイルを塗ってくれた。僕はいま自分でメンズネイルをやったりするけれど、たぶん彼女から受けた影響が大きい。

「細貝くんって、笑わないよね」

彼女からよく言われていた。あのころ、何も楽しくなかった。大学を出て、みんなが立派な仕事をしているなか、僕は夢を追って、バイトをかけ持ちしていた。

「笑った方がいい?」

「笑ってみて」

僕が無理に笑ってみせると、それを見て彼女は楽しそうに笑った。

彼女は少しでも部屋が明るいと「暗くして」とねだった。女の子はどうして真っ暗じゃないと嫌がるんだろう。相手の顔がはっきり見えた方が、かわいいなぁってなるし、好きだなってなるし、もっと気持ちよくさせようってなる。ふたりのしている行為をより尊いものに感じられる。暗くしてしまうような後ろめたい行為をしているつもりはない。

彼女をうつ伏せにさせて、そのまま身体を重ねて挿れる体勢が、彼女とはすごくよかった。奥まで挿れてから、さらに角度をつけると、彼女は我慢していた声を漏らして、シーツを掴んだ。

窓を開けて、空気を入れ替えながら、外の青い光だけで、ふたりでコンビニアイスを食べる時間が幸せだった。

「こんど、おれ引っ越すんだよね」

「え、どこに」

こんどのオリンピックの新しい競技場ができるところの近くだった。

「細貝くんちの窓からオリンピック選手見えるかな」

「え、オリンピック好きなの?」

「ぶっちゃけどうでもいい」

「俺も」

知り合いならまだしも、どうして自分と関わりのない人間たちがスポーツで競い合っているのを見て、熱狂できるのだろう。僕に想像力がないだけだろうか。

僕は遠くのことではなく、近くのことにしか関心がない。

「オリンピック見るくらいなら、君とベッドもぐる」

「何それー」

僕たちは、恋人じゃなかった。

恋人ごっこの女の子たちとの終わりは天気雨みたいにいつも突然訪れる。気持ちの用意をしておかないと傷ついてたいへんなことになる。それで10キロくらい痩せてしまったこともあった。

僕は彼女のことが好きになりつつあった。だからこそ、常に傘を差しておいて、いつ雨に振られてもいいように準備をしていた。

だったら、付き合えばいいのに、と人は思うかもしれないけれど、そんな簡単な話じゃない。

付き合ったら、別れるまでのカウントダウンをいっしょに数えるだけになる気がしていた。

彼女自身も僕とは気楽に会えて、そこそこ楽しい時間を過ごせて、野良猫みたいに放っておいてくれるところに魅力を感じているのだ。

真剣に付き合うことを、彼女は求めていない。彼女の求めないことを、僕は求めない。

会う約束をしていた夜があった。彼女がバイトで入っている美容室の締め作業を終えてから、僕の家に来る。けれども僕が風邪を引いてしまい、僕の方からキャンセルをしてしまった。

それから互いにメッセージをいくつか送り合い、最終的には僕からのメッセージに彼女が既読を付けなくなって、僕たちの関係はあっけなく終わった。

オリンピックが開催し、競技場のまわりを散歩するのが日課だった僕にとっては、迷惑な日々が続いている。

神宮外苑にセブンティーンアイスの自販機があって、抱いた女の子といっしょに家から歩いていって、そこでふたりアイスを食べるのが好きだったが、今ではあたりは封鎖されていて近づくことさえできない。


ネイルの専門学校に通っていて、数ヶ月ほど恋人ごっこをしていたあの女の子から、数年ぶりに連絡が来たので驚いた。LINEではもう繋がっていなかった、彼女からの連絡はインスタだった。

新宿の洋食屋で久しぶりに会う。僕は見事にアラサーになっていて、彼女のほうもいつ結婚してもおかしくない年齢になっていた。大人っぽくなったとはいえ、やはり僕の好きな顔だった。猫背もそのままで、見つめられると、いろいろ昔のことを思い出しそうになる。

きっと本題があるんだろうと思いつつ、そこには触れず、僕たちはあのころの話をたくさんした。どんなあだ名で僕が彼女を呼んでいたか。そういえば、いっしょに料理も作ったよね。

「いま、好きな人がいて」

と、彼女は切り出す。

「結婚したいと思ってるんだけど、向こうは結婚で失敗したことがあって、もうしたくないって言ってて……」

「付き合ってるの?」

「微妙な感じ。わたしは、付き合ってると思いたい」

その言葉を聞いたときに、胸がきゅっと縮むのがわかった。

「俺とは、てきとーに遊んでたのに」

僕が皮肉を言うと、

「あのころはわたしも若かったし。でも、そろそろちゃんとした人間にならないとって思ってて」

彼女は僕よりもずっと大人な言葉を口にする。

その彼に結婚するつもりがないなら、君はその彼にいいように遊ばれてるだけだし、それは目指すところの「ちゃんとした人間」とは程遠いんじゃない? 自分のことは自分で守ったら?

……そんなまともらしい言葉をつらつら並べる僕に「そうだよね」と彼女は頷く。もうとっくに彼女の中で答えは出ているのだけど、気持ちの部分でどうしても彼を諦めきれないのだろうと思った。


「よかったら泊まってく?」


新宿通り、お店を出たところで彼女に聞いた。猫みたいに寄ってきた。手を挙げて、タクシーを止めた。

世間がオリンピックに沸いているなか、僕は数年ぶりに会った女の子と部屋を真っ暗にしていっしょのベッドにもぐった。お互い裸で触り合い、きゃっきゃして、まるで数年前のあのころに戻ったみたいだった。

付き合いたい、

いや、

付き合いたかった、

という気持ちがせり上がってくる。

けれども、それを言ってしまったら、何もかもが白けてくると思った。

僕は彼女の足を持ち上げて、しっかり奥まで挿れられるようにして、強く突いた。

彼女から漏れる声はあのころと変わっていない。

けれども、足を離したとたん、彼女は自分で腰を動かし始めた。僕の動きに合わせて。

それはきっと、会っていなかった数年間のあいだに、誰かに教えられたものでしかなくて、その瞬間、なんだか哀しくなった。この一瞬のあいだに僕はやっぱり彼女のことが好きだったことを思い出させられていた。立派に嫉妬し、立派に哀しくなった。


「アイス食べる?」

セブンで買った「フレンチトーストのアイス」が冷凍庫にあったのを思い出した。

「食べる」

彼女はティッシュを丸めながら答えた。

ふたりとも半裸でアイスを食べた。

窓を開ける。ふたりの匂いが外に逃げていく。

「まだ終電あると思うから今日は帰るね」

「うん」

となりのアパートから、歓声が上がる。

ところで、オリンピックはいつから始まっていて、いつ終わるんだろう。

僕と彼女は終わっていたと思っていたけれどどこかで続いていて、今日こうして会ったのだろうか。

また、となりのアパートから歓声が上がった。

「日本人選手が活躍したのかな」

僕が言うと、

「そうなんじゃない?」

彼女は笑って、アイスを舐める。

僕たちは相変わらず、近くのことにしか興味がない。


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