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『鬼滅の刃』と藤井聡太八段とディープラーニングとアイザック・アシモフとH.G.ウェルズと空想社会主義者たち



鬼滅の刃を観てきました。

ちょっとだけ感想(実は感想ではない)。


アカザが煉獄さんに、「鬼にならないか?」って聞きますね?そうすれば、何百年も鍛練を続けることができる、至高の領域に到達できる、と。それで真っ先に頭に浮かんだのが、天才棋士の藤井聡太八段のこと。


多少の失礼を承知で言えば、藤井八段は、人類としてはおそらく最強の棋士になると思いますが、AI棋士にはかなわない可能性が高い。藤井八段が後何十年、将棋を指し続けたとしても、AIのディープラーニングは更に何万年もの対局を繰り返し、強くなることができる。藤井八段が何十回、何百回と生まれ変わらなければ、AIの経験値を超えることはできないかもしれません。


藤井八段が100歳になる頃には、AI棋士の対局年齢は、宇宙そのものの年齢にも等しくなるでしょう。この差は永遠に埋めることができない。藤井八段が人間である限りは。


もし仮に、藤井八段が、「お前もAI棋士にならないか?」と言われたなら、彼は拒否するでしょう。おそらくは。しかしそれは、「人間が尊いから」なのでしょうか?人間はいつか死すべき存在であり、有限であり、だからこそ美しいのであるから、鬼になるべきでない、という論理が、実は私にはよくわからない(というと、恐ろしいことのようにも思えますが)。


美しくないもの、醜悪なものに憧れる心理というものもあります。たとえ人間を辞めてもいいから、至高の存在に到達したいと願う人間がいてもおかしくはないでしょう。むしろ、正当な願いではないでしょうか。弱き人間にとっては。


アカザは、「この誘いに乗った柱は一人もいなかった」という。それが私には、にわかに信じられません。人間はそんなに強いものではない。どんなトップアスリートにもドーピングの誘惑があるように、強さを求め続ける者であれば人一倍、人間の限界を超えたいという欲求があってしかるべきだ、とすら、思えます。


私はその点、煉獄さんよりもアカザの論理の方が遥かに筋が通っているように思うのです。煉獄さんはかっこいい、それは確かだ。しかし私なら、アカザの誘いに乗ってしまうかもしれない。そう考えると、私のような人間はそもそも柱になれないし、なるべきでもないのだな、と、妙に合点がいきます(おい)。


しかし、至高の存在になれたとして、競合する相手がいないまま、何百年も自主トレを重ねるなんて、退屈なことはないでしょう。昔、レースゲームのタイムアタックで、自分のゴーストと競争する仕様がありましたが、あれも退屈なものです。何百年も自主トレをするとは、あれを何万回もやり続けるということでしょう。並みの人間には耐えがたい退屈さ、なのだと思います。


鬼というのはそう意味では、AI的な存在です。無限の退屈さに耐え得る存在という意味において。その鬼たちを統べる「無惨様」という存在が、パワハラ社長に見えるのも、彼が、テクノロジー資本主義のメカニズムに忠実に動いているからに過ぎません。鬼には感情があるから、それが酷に見えるだけ。


人間は、その個としての弱さを、世代間の継承と連帯によって補っているわけですが、鬼たちの社会は、個=即全体なわけで、自己完結した存在です。何百年にも相当する時間、ディープラーニングを継続することで、人間の時間を超越することができる。そう考えると、鬼滅の刃という作品は、アシモフの描くSF小説と似ています。人間の時間とロボット=鬼の時間が、鋭く対照をなしているのです。


もともと、SF小説の誕生は、資本主義社会の進展、社会の産業化と密接に関連しています。最初の本格的SF小説と言われる、H.G.ウェルズの『タイムマシン』(1895年)も、イギリス産業革命(その定義はどうあれ)の進展によって社会の階層化と分断が進んだ、19世紀末のイギリス社会という背景があって、成立したものです。資本主義の進展が階層を分断し、人間の時間感覚に、ある種の歪みと断絶をもたらすことを、ウェルズは鋭く見抜いていたのでしょう(イーロイとモーロックという2種類の未来人種は、この二つの時間の反映とも言える)。


社会主義者たちが描き出した、資本家に搾取される労働者、という構図が、『タイムマシン』を産み出したように、『鬼滅の刃』における人間と鬼との対立軸も、産業構造の反映と見て取れなくもない。なぜ無惨様がパワハラ社長に見えるのか、という問題は、その辺に答えがあるような気がしています。


アカザの問いは本質的です。より、合理的な労働者にならないか、と、聞いているわけです。最近話題の『ライフスパン』においても、「生の有限性」という問題に科学はどのような変革をもたらそうとしているのかが示されていますが、それと合わせて考えてみると、『鬼滅の刃』という作品は、普遍的なエンターテイメントであると同時に、かなり本質的な問いを立てているのかもしれません。ならば炭次郎というキャラクターは、労働者の理想郷を目指すフーリエか?さしづめ、空想社会主義者なのだろうか?


そういう視点から見ると、胡蝶しのぶが作中で、「鬼と仲良くする」姿勢を持とうとしているのも、含蓄があります。


ついでに言えば、映画を観て号泣しました。
たぶん、3回くらいは泣いたわ(涙もろい)。

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