圧倒的正しさとしての「未来」


 私、グレタさんが圧倒的に正しいと思うのは、未来のために戦う、というその姿勢だと思うんだよね(皮肉ではなく、ね)。一人の人間の有限性という限界に直面して、人間は種として未来の繁栄を願わねばならないのだから。

 

 変化が大事、とか言ってる人たちも、明日にでも住んでいる場所を追われる身になったら、もう少し待ってくれ、とか言うんでしょうね。当たり前だろうな。


 種として繁栄を願う、ということと、個として非生産的な生活を送ることは両立するんだと思わない?だから、反出生主義は個人主義なように見えて、実は共同体主義なんじゃないかと思ってるんだよね。


 反出生主義は実は共同体主義だ、というのは、種の繁栄なんてロクなものではない、と、種の運命について気を使ってくれているからこそ出てくる発想だと思うんですよね。手前だけが満たされればよい、というのなら、未来の子供たちの幸福なんて願わないでしょう。


 産まれてくることは不幸だ、快楽の究極は産まれてこないことだ、というのは、純粋に個人主義的な発想ではないと思うんですよ。共同体の幸福とまではいかなくとも、少なくとも、「不幸にも」産まれてきてしまう未来の子供たちを気にかけてくれているわけでしょう?彼らの表現を用いるなら。


 だとしたら、反出生主義とは、誕生の否定を通じて共同体の幸福を願う共同体主義、だとも言えるのではないでしょうか。すっごい倒錯的な表現ですけど。なんかゾワゾワしてきますね。


 種の繁栄を願うのが共同体主義なんだとみんな当たり前に考えているけど、ある共同体の存続のために別の共同体の死滅を目指した共同体主義も、かつてあったわけです。アーリア主義っていうんですけどね。


 だから、グレタさんのいう、「地球上のすべての生命体のための共同体主義」というのは、何に対しての共同体主義なんだろうな、と素朴に考える。


 今はたまたまコロナウィルスっていう全人類共通の敵みたいなものがいて、かろうじて、そいつが共同体の敵みたいな扱いされているけれど、グレタさんは反出生主義についてどう考えているんだろう、と、ちょっとご本人の考えを聞いてみたい気もする。


 未来のために戦うのは圧倒的に正しい。だからこそ、その圧倒的正しさを前にして、有限な個としての人はしり込みしてしまうのではないのでしょうか。最近私は、そんなことを考えています。


 そう。


 この圧倒的正しさ、というやつが、私の中で、なんか「もやもや」した感じ、に繋がってるんだろうな。


 そこをもう少し突き詰めてみたい。


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