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【ダスカロスの教えに学ぶ22】“生命”と“生命現象”/“いまここ”にある“永遠”(「真理の言葉」第12章より)


ダスカロスの著書は奥が深い

サッと読むだけでは意味をくみ取れないことが多いのは、ダスカロスの母語であるギリシャ語英語にして、それをさらに日本語変換していることも要因のひとつかもしれない。言語思考は切っても切れない関係にあるゆえ、日本語が母語のひとが「ダスカロスの教え」を学ぶのは、ギリシャ語を母語にしているひとより難しいと思う。

ギリシャ語は歴史の古い言語だ。

「ダスカロスの教え」の用語の特殊性概念の捉えにくさ、じぶん自身の努力不足などもあり、文章は読めるのに意味がわからなくて読み飛ばしただけ?って感じの「真理の言葉」↓ であったが、、、(^^;

この本を「ダスカロスの教えに学ぶ」シリーズ教本として選んだのは、正解だったのではなかろうか? 内容に集中しじっくり時間をかけて考えることで理解が深まった。ダスカロスは「先生は ” を示すだけ」……としばしばいう。“真理” は経験を通じて自ら学ぶ他ない。それを身を持って知るための「過去15年」だったように思える。

ともあれ、わたしの先生キリストであり、ダスカロスであり、その他多くの クリスチャンの” を歩む方々であり、それらの先生が示してくれる “” を、日本語で学べるのはほんとうに有難い(わたしは外国語の習得が不得手 ^^;)。ダスカロスの著書を日本に紹介し、翻訳してくださった皆さまへの感謝の念が尽きません。ありがとうございます。

では、「真理の言葉」第12章を読み解いてゆこう。

「生命」と「生命現象」の境界、「オンドピイシス」と「テオーシス」

ダスカロスは “生命” と “生命現象” という言葉に、それぞれ別の意味を持たせている。で、この区別がとても重要な観点であることに、今回はじめて気づいた。

生命とは何でしょうか? 人生とは何でしょうか? 生命人生とは二つの異なったものです。生命とは、絶対存在であり、絶対生命であり、絶対的真実です。人生におけるとは同じ絶対存在の 多重性 にあるもので、表現であり “生命現象” と言えます。

生命とは唯一のもので、絶対生命と言えます。その絶対生命の中に、あらゆる生命現象が存在しています。私たちは絶対生命の中にあるものであり、行動し、存在しています。生命とは大海のようなものであり、分離の世界 ではそこから生命現象絶対生命ではなく)が引き出されるのです。

二つの関係(Noel注:“生命” と “” の関係)をさらに調べていきましょう。

生命一つで、その一なるもの絶対存在であり、絶対生命であり、絶対的真実であり、自己充足生命であり、真理そのものなのです。

一方、私たちの人生における命とは、多重性 にある絶対存在表現、すなわち生命現象であり、私たちはこのを多くの段階形態において見ることができます。このように、人間の命一人ひとり異なっています。動物界の命も同様に異なっています。植物界や鉱物界の命もそれぞれ異なっています。マインド を通しての表現である天使的な命異なっています。また、いろいろな大天使の階級に属する大天使たちの命異なります。

では、キリストロゴス の命もいろいろ異なっていると思いますか? いいえ、異なっていません。私たちは意識として「絶対的な聖霊意識」の細胞であり、また 自己認識 として「ロゴスの絶対的自己認識」の細胞なのです。

最愛なる方(Noel註:キリスト)はであり、そのがこの世に来るすべての人にを与えています。このが 自己認識 を与えています。だから私たち一人ひとりは、絶対生命からの一つの細胞的生命を持っているのです。

ここまでを復習しましょう。意識的細胞として、私たちは「絶対的な聖霊意識」の細胞です。そして、自己認識的細胞、すなわち表現としての自己認識を持った 現在のパーソナリティー として、私たちはいわゆるキリスト、あるいは「ロゴスの自己認識」の細胞なのです。しかし、私たちは細胞自体ではなく人生という命を持ち、同時に永遠の生命を持っているのです。私たちは聖霊的、かつロゴス的生命なのです。私たちは絶対存在の一部である 聖なるモナド としての生命を持っています。この点をよく留意しておきましょう。

生命” と “” の境界は、コーザルステート(7次元)とノエティックステート(6次元)の間にある……というわけで、これまでの「6次元は非分離(ワンネス)の次元」という認識を修正した。6次元限りなく絶対無限の存在に近くても完全に一体化してはいない……つまり、6次元は “生命”  ではなく、“”(生命現象) の次元と捉えるのが正解ということになる。

それを、シンボルオブライフ で示してみた。

(注)Noelが作図、ダスカロスの著書にある図ではない
パナヨッタ氏の「飛翔の翼」を読み、内容を一部修正(2023/9/19)

「最上部の三角形」が “生命” 、「右の柱」が 自己意識 を持った “人間の命” 、「左の柱」が超意識を持った “大天使たちの命” を表している。

絶対生命である 聖なるモナド としての “” が 人間のイデア を通過すると、始まりと終わりのある “” として表現されるようになる。この変位を “オンドピイシス” という。

ここで、私たちは “オンドピイシス”(Ontopeisis/ギリシャ語)の起源にやってきます。(この言葉は翻訳することができません。ギリシャ語で “on” は「永遠の存在」(being)を意味し、“peisis” は「……になる」(to become)という言葉に由来します。“オンドピイシス” は、テオーシス に関連した近い意味を持っています。テオーシスとは、自分の「エゴ」との啓示と結合を人間の観点から見た表現ですが、一方 “オンドピイシス” は「エゴからの観点であり、それが人間のイデア通過し投影されることにより何を得たのか、そしてそれがテオーシスに至るまでの地上でどのような生命(Noel註:ここはとするのが正しいのでは?)を経験するのかを表したものです。私たちがテオーシスを通して “故郷に戻る” 時、私たちの兄弟であり、善なることだけを知る大天使たちよりも私たちがより完全に近い永遠の存在になるのです)

「真理の言葉」188‐189ページ、一部の太字化はNoelが実施

「ロゴス的」であり「聖霊的」である人間

聖なるモナド(センター2)のひとつの “生命の光” がの道を降り、人間のイデアを通ることで「自己認識」となる人間は “ロゴス的” なのだ。

現在のパーソナリティー の「自己認識 を持つ自己」として、 私たちの人生(Noel註:命)はロゴス的なのです。しかしロゴス的と言っても、分離の世界 におけるロゴス的人生自身の経験を得るものであり、悪の意味でさえロゴス的自己認識性の内に留まっているのです。もしそうでなければ、如何なる制御も成り立たないことになります。

私たちの「永遠のパーソナリティーとしての自己」としてのロゴス的自己認識性は、生命現象として存在するとも存在しないとも言えません。私たちは肉体を持ち、それは誕生から成長し、全なる智恵全なる力善性 の中で聖霊的に統治していきます。もちろん、肉体は分解され、灰は灰へ帰されます。肉体とそのエーテル・ダブル、サイキカル体とそのエーテル・ダブル、そしてノエティカル体とそのエーテル・ダブル として、私たちはパーソナリティーを持った自己認識であり、既に話したように、分離の世界の三次元の世界における生命(Noel註:命?)なのです。肉体、サイキカル体、低次のノエティカル体(低次の…がつくのは3次元における自己ゆえ?)として、私たちは純粋に聖霊的なのです。この点については ギリシャ正教 の教義と完全に一致しています。

「真理の言葉」189‐190ページ、一部の太字化はNoelが実施

私たちの 永遠のパーソナリティー としてのロゴス的 自己認識 は、「“生命現象として存在するとも存在しないともいえない」というダスカロスの解説に注目しよう。これが、“生命” と “” の境界にある6次元(ノエティック・ステート)の特徴なのだ。

ーーー(2024/2/13追記&修正)ーーー

パナヨッタさんの「飛翔の翼」を読み、もっとも主要な上昇ルートとなるのは “中央の路” であること、そして「センター5→センター2」の上昇ルートはなく、神との一体化(テオーシス)には “中央の路” から進むことを理解し、掲載していた図を以下のように修正しました。

ーーー(追記&修正おわり)ーーー

人間の命” は “ロゴス的自己認識” を持つと同時に、“ 聖霊な 3つの体 ” も持っている。

私たちは生命の担い手聖霊であると言っていますが、同時にキリストロゴスご自身を通して、すべては過去にも存在し、今も存在し、これからも常に存在し続けるでしょう。そのために、私たちのパーソナリティーの自己認識を持つ自己」、肉体サイキカル体ノエティカル体 として聖霊的であり、聖霊意識の影響を受け、後に超意識に支配されます。

しかし、私たちの内なる自己、すなわち 永遠のパーソナリティー の「自己認識自己」、そして  の「自己認識自己」の表現手段として、私たちの各体ロゴス的表現を表しています。このために、人間には 現在のパーソナリティー としての自己認識形態がまさに与えられているのです。それは確かに自己認識性ですが、時間と場所という領域内における自己認識にしかすぎません。一方、永遠の生命としての自己時間と場所という概念の中には存在せず永遠の今 にある絶対性と共にあります。

この違いに注意してください。

「真理の言葉」190ページ、一部の太字化と改行はNoelが実施

生命としての自己” と “生命現象として表現された自己” 、さらに “永遠のパーソナリティー としての自己” と “現在のパーソナリティー としての自己” の「違い」に意識の焦点を当てることで、真実の自己がみえてくる。分離の次元(3~5次元)における人間の “認識力” は、何かと何かを比較することで成り立っているのだ。

「現在のパーソナリティー」と「永遠のパーソナリティー」を同時に認識する

ダスカロスは、6次元から3次元の間にある さまざまなレベルの自己性 1本のロープで例える。

(注)この図はNoelが勝手に描いたもので、ダスカロスの著書にはない

この1本のロープは、真理の探求者のたどる “” の象徴である。

ロープの一端には 現在のパーソナリティー として表現されている「3次元の自己」があり、反対の端には「6次元の自己」である 自己認識 がある。そして、わたし達は 永遠のパーソナリティー をロープの一端ではなく、ロープ全体として認識しなくてはいけない。

私たちは肉体から衣服区別できなくてはなりません。すなわち、衣服を脱ぎ去り、「これが肉体で、これが衣服です」と言えなくてはならないのです。しかし、永遠のパーソナリティーについては、同じことは言えません。なぜなら、さらに完全な自己を知るためにその表現である現在のパーソナリティーの自己認識(衣服とはいえないので)を脱ぎ去ることはできないからです。しかし、私たちが両端に到達する時にそれを知ることになるでしょう。他にそれを知る方法はありません。

これがです。このロープに喩えた線がであり、真理であり、なのです。この生命という課題については、深く 瞑想 しなくてはならず、それにより真実の自己を確認することができるでしょう。私たちの真実の自己とは意志といえるでしょう。それが現在のパーソナリティーの自己知り支配しているのです。

「真理の言葉」192ページ、一部の太字化はNoelが実施

自己認識現在のパーソナリティーから永遠のパーソナリティーへと拡張してゆく際のポイントは、「ロープの一端」や「途中の一点」ではなく、「ロープの両端に同時に集中すること」だとダスカロスはいう。

現在”(特定の時間-空間-場所)における経験のすべてが永遠のパーソナリティー永遠の原子)に記録される……つまり、現在のパーソナリティー過去の記憶エレメンタル)の “投影” といえるが、その “現在”にもに繋がる “永遠性” が含まれている。もっとも振動数が粗く密度の濃い次元においても、わたしたちの “” は “生命” から切り離されてはいない……が、“現在” に対する “過去の記憶の投影” が 潜在意識的第4段階の意識)である限り、永遠のパーソナリティーとしての “自己意識(第6段階の意識)は目覚めない。

意志の力”(マインドの意識的使用、理性)を発揮し、内省瞑想 によって潜在意識の闇人-悪魔)を照らし、現在のパーソナリティーと永遠のパーソナリティーの融合を促していきたい。