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清廉缺落1:エンドロール



《あらすじ》

絵画【 ピグマリオンとガラテア 】をモチーフとし、大学生の「僕」が白昼夢の中で出会った
一人の女性に陶酔してゆく様を描いてゆく物語。

撃ち落とした誰かの夢も、握り潰した正義も、
全部、当人にしか分かり得ない真実があるが、
それらには必ず不明瞭な欠落点がある。

欠落はどこかで必ずこぼれ落ち、
拾い集めた者は必ず刃先を向けられる。
それは真実にほど近く躙り寄った証拠だ。

主人公が女性の正体に気がついた時、
一体どんな結末を招くのか?

ミステリーベースではありながらも、
ヒューマンやファンタジー要素を
落とし込んだ一作です。


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《第一楽章》エンドロール



 ――まもなく渋谷へと到着する。

鴉の羽根が線路を煽るべく落ちるのは、未だこの世に依然とした愛が忽然と消化されることなく灯っているからだ。消火できない半端な微熱を飼い慣らしながら、誑かす刹那を抱いて、明日という悠悠自適へと押し黙らせる術を模索しては、正当化という、マシカクの愛情をぶつけながら生命を昇華させた気になって、僕は今日も陳腐に生きている。


 なだらかに雨水に滑り、空中で不要物となった破片を道端に添えれば反骨心に塗れた怪奇を疑われる。女、男、ジェンダーレス、もはや増してや何の分類でもない狭間。愛しさってなんだ。高校時代となりの席の女を虐めていた犯人はインスタで婚約発表を繰り広げ、俄なるいいねが寄せられる。誰もそれらに興味など無いのに、いつしか人生の主人公は自分であることを信じて疑わなくなる。恐らくその自我を芽生えさせた昏く光る瞳は一点を見つめて、奈落を知ったような顔して、さすらえば名も無き異端児をこの手に朽ちるように欲をぶつけて、はらはらと舞う羽を誰かが煙草の吸殻如く踏み躙る。誰かが吐き捨てたガムが靴の裏でこびり付く見知らぬ誰かの傍で、今日も誰かがシラを切る。

 裂いた空には渇望が撒かれ、それらは未だ電線に絡まり、縺れ、これを無理やり千切ろうとすれば誰かの契りが閑に散り散りになって屑と化す。愛する周波数の唸る世界が紛うことなき贋物であろうと、シュレッダーにかけられた屑はすっかり萎えきっていた。

 あちこちに落とされた黒き金剛石は喫煙所の吸い殻の煤に擬態して蹴飛ばされ、蹴っても蹴っても坂をのぼりきれず、結局TOEIの位置まで戻ってきて、そうして自販機を横切り下水道へと流れて行った。

 通り道がいずれフェンスに燃えゆく片鱗だとしても、その模倣にさえ出会えなかったとしても、瞼に映した造形を愛し、愛し、愛して、途切れることのないバスのロータリーに巻き込まれて、途切れた現在地をもう一度タップしても、それでも、僕はこの街を信じている。



×××


 靄に巻かれたようにして空間を包む暖気は、駅へと到達する毎に迎えられる外気に挑発すべく漂っていた。

 時刻は間もなく十八時。

 ここにいると、夕暮れも太陽も何もかも、視界に認めずに済む。いつ何時でも冷たく鋭く、そして優しい闇に護られる。拗らせたままの感情を、事が理解できるようになってから落としゆくだけのこと。時価に果てはない。


 闇を穿くのは鉄の塊ひとつというもので、表現はヤワな理想、山手線の窓から抜けていく世界は思ったより彫り込むべくスローモーションで画した輪郭を描くし、そもそもこの、蠢く残像が過ぎていくのが、道なる行方へと値するのか、そういったことまで僕には期待を持つことができない。
 ゆっくりと瞼をおろし、そしてゆっくりと上げる、そんな軽はずみで浅はかな人間の、理なき行為の合間にも誰かの生活が鋏のごとく割かれていく。

 隣に座ったカップルも、目の前で単語を出題し合う受験生も、塾へと向かう小学生の群れも、明日や明後日には散り散りになるかもしれない。僕が欲した世界がそれじゃないなんて、本当は欲する世界があるのだなんて、そんなことまだ伝えることが出来ないでいた。

 目で確かに見たものは誰かの模倣で、不確実に愛した幻想こそがまだ誰のものにもなり得ない朽ちぬ紛い物なんだと、いつだって僕は素知らぬ異邦人に丸投げするのみだ。

 自分を守る為には、それしか術が見つけられなかったから。





 効きすぎた暖房のせいで嫌な汗がじっとりと滲む地下鉄の車内は、外では北風をしっかりと通したアウターも不必要なほどに熱されている。向かいには黒いチェスターコートの男、その付近には厚手のニットから更に分厚いダウンを着用した観光客。

 吸っては吐き出す呼吸のごときテンポで入れ替わる人々を眺めて誤魔化そうとは試みたものの、滲み出す汗が余計に背で主張してくるものだ。

 ならばとアウターを脱ごうとすれば腕が付近のOLに当たってしまうわけで、体温調節さえもこの世界では許されやしなかった。夏の空調はいくらかけても効きが悪いというのに、こんなにも冬には轟轟とエアコンが効いてしまうのはなぜだ。人間、或いは生物の体温調節機能に逆らって、誰も助言は与えない。リモコンひとつで変化可能なのに、沸点を知らない。十二月には薄く、熱された車内に対しては厚みのあるアウター。縮めた身体を捩ろうとも脱げない重だるさや、カサカサと鳴る繊維の摩擦音諸々に辟易としていたら、急に昨晩十分に夕食のペスカトーレで火傷した舌がピリリと痛みだした。
 何処かに不備があるとき人は、他の何かさえも無駄に強く感じられてしまう。例えば視力の乏しくなる洞窟に入れば、蟻が通過する戦慄《わなな》き微弱音さえ聞こえるほどに、その異常たる聴力を発揮すると言う。人はだらしなく萎え果てた表皮の奥に、異様な感知能力を兼ね備えている。


 君は、その狭く放られた世界の中で、何に祈りを捧げて生きるのだろう。装飾された形のいい耳朶に蜃気楼を見たり、つんと尖る上唇を金剛石の代替として差し出したり、そんな常々回りゆく絵空事を現実の身代金にしたりするのだろうか。レプリカで構わないから、どうか並行した世界で命を震わせたいと思う。それは、残酷な事実なのだろうか。

 例えば冷凍のパスタか、カップラーメンか、曲りなりにも夕食に相応しいのはどちらだろうかと考えたところで、だいそれた答えが用意されてはいないように、数多ある選択肢には矛盾たる正しか現れない。

 冷凍庫に行儀よく敷き詰められたペスカトーレの群れ、キッチンの棚に乱雑に放り込まれたシーフードヌードルを交互に見、そうして選ばれたのがペスカトーレの方だったのだが、こういった偏った、所謂不本意な議論にはやはり正当な回答が得られなかった。

 どちらも発泡スチロールの塊がゆえ洗い物が無いという点では有難いが、棚まで出向いたのちに湯を沸かすよりも冷凍庫から電子レンジまでの方が数センチソファから距離が近く、かつ手間が省ける。そういった端的極まりない理由でパスタがターンテーブルへと乗せられる羽目になったというわけだ。ぼうっとそれを眺めていても電磁波が唸るだけだった。生産性がないものは、由々しき事象として取り上げられる。生きる希望を探す果てに自我が巣食われていく。

 僕は偏食であるがゆえ、この部屋にバラエティに富んだ食品は買い揃えられておらず、口にしてみて舌に合ったものを買い溜めし、それらだけで日々の食を回しているというのが日常だ。ミネラルウォーター、ペスカトーレ、カップラーメン。僕の生活は恒に同じ線路の上を細々と通過し、そして選別された車内広告のごとく極端である。左斜め前の窓ガラスに映る素知らぬ女は小説を読み耽っている。鬱陶しく重い前髪でひた隠しにした瞳が翳る。ノルウェイの森。一読で眠り、二読に大きな欠伸をし、三読目で蔑み、四読で刹那を共有し、五読でドビュッシーを屈した名作だ。その女は何度、砂粒の如く溢れ、朽ちぬ不協和音にページを捲るか。



 × × ×


 ―――「だからさ、やっぱ変だよな」



 耳につく、ひどく乾いた、古紙のごとき声。勝ち誇った安っぽい酒で喉を潤したのを具現する、雨を知らぬままの目出度い愚問。静かなる電車の滑走音以外には人という人の声は響かぬ車内で発するノイズ。

 やっぱ変だよな、そのたった一言がイヤホンを割りこんで響くので左の方に目をやると、視界へと飛び込んできたのは池袋から乗ってきた男女だった。

 声の主、男。おおよそ三十代前半ぐらい、痩せ型。座高、高め。しっかりと張ったエラ、抉るほどに彎曲した眼球、低い団子っ鼻。マッチングアプリの電子広告に使われて居そうな求心顔。まるで指名手配のごとき様で男の姿を脳内で形成していくと、フォーマルルックに不釣り合いな靴がスニーカーなのが目に付いた。

 そういった外見形成を行う間にも男は指で有名ブランドのコートの端を弄りながらあらゆる無利益の持論を繰り広げ、それらはやむなく闇を突き抜ける車内で完全に浮いている。
 例えば、モノクロの世界に極彩色のペンキをひっくり返したみたいに。



「…誰にだってそれぐらいあるでしょ」



 ピアノで弾いた時の音階の"シ"を具現したような高い声でそう返すのは男の隣でスマホを操作する女である。女は怒りに満ちても上機嫌でも無く、表情に現れるものは何も無かった。ただデリカシーに欠けた男を軽蔑しているのは瞳の微かな色から容易に見て取れた。女に透明感は見られぬが、強かな品は感じられる。

 恐らく二十代後半、多分香水はジョーマローン。静電気でハネてしまった毛先へと怠惰を滑らせるようにしてするりと左手の指を通しながら、可憐な右人差し指を液晶に滑らせる。真新しいゴールドブローチを襟元にあしらったファーコートには、埃ひとつ吸い付いていないようだった。誰にだってそれぐらいあるという彼女の発言は、優しい同情にも残酷極まりない通達にもとれた。懐疑的な感情を棄て去っている。いや、破棄しているのではない。カスタマイズされていないのだ。生まれ落ちたその時から、恐らく。


「でもさ、日常的にとかさ、なんか、どうよ」
「…別に自由じゃない?」
「いや、俺には分かんないわ。所詮ヌイグルミだろ、生きてるわけでもねぇのに」


 大きく揺れる車内で僕はなんとか窓に支えられながら立っている。左側に座っている先程の関係不明の男女の味のないやりとりを、購入して三年でノイズキャンセリング機能がうまく働かなくなったイヤホンのせいで嫌でも聞き取ってしまう。どの年代に流行ったやら分からない、「なんか、どうよ」の喋り癖が気に入らない。「なんかさ、」と間を持たせた方が美しいのではないかとでも思いはしたが、この男の挟む「なんかさ、」はダメだった。どう喋ったって恐らく竹をひん剥いたみたいな酒やけ声はもうどうにもならない。
 シャットダウンするために身につけているはずのイヤホンは、中途半端に仕事を放棄しているものだから聞いて呆れる。ノイズキャンセリングは出来ぬが音楽は問題なく流れるものだから買い替えに至らないのである。

 因みにシャッフルで流れてきた曲は確か何かのドラマの主題歌で、空気の読めない家電量販店の広告塔の如くだらしなく垂れ流しになっている。僕はこの曲を生憎詳しく存じ上げ無いが、以前の恋人はこのバンドを世紀屈指のニューフェイスと祀りあげていた。

 なんとかよろける体でバランスをとるが、休日18時の山手線はよく加速し、そのうち取れていたはずのバランスも一歩下がった際に大きくよろけてしまった。
 こうもバランスを大きく乱したはずみで、足元に置かれていたらしいリュックの紐を踏んでしまっていたらしく中年の男がこちらを睨む。…スミマセン、と小さく会釈すれば、下から上へと視線で舐め回された。リュックは紺色の、その萎びた様子は着ぐるみの抜け殻のようで滑稽であったが、面倒に巻き込まれたくは無いので吹き出しそうなのを堪え一歩後退りして、視線をできる限り下げた。

 ジリジリと躙る細やかな言葉のひと粒ひと粒、砂鉄であれば吸着できるやもしれぬが、僕は所詮すりつぶしたら潰しっぱなしで、ジトリとした湿り気を含む視線を中吊り広告にでかでかと載せられた有名俳優の不倫に重ねてひとつ咳払いをした。もう一度リュックの中年男がこちらを睨んだ。SNSより早い情報はもはや疑わしいこの時で、君はもっと、ずっとずっと、不確かだったというのに。

 先程の団子っ鼻は女が閲覧しているスマホの画面を覗き込み、アイドルのニュース記事を閲覧しているらしい。

 「でもさ、日常的にとかさ、なんか、どうよ」はこのニュース記事へのそれだったと分かる。なんとか同調して欲しい、いちいち事細かに「ね、」と同意を求めて来さえしそうなまことしやかな脅迫。

 こちらからもチラチラと画面が見えたので横目で囁かに拝見すると、大胆にスマホの画面一面を占領しているのはくまのぬいぐるみを抱いたままアンニュイな表情を決める美形の男が主張した。ここ最近話題の若手俳優だ。たいそう可愛らしいそのくまのぬいぐるみは、画面に映る彼に違和感という違和感を与えはしなかった。
 話の筋、画面の様子諸々から推察するに、どうやら幼き頃から大切にしているくまのぬいぐるみを画面いっぱいに占める彼が慈しむべく紹介したとの話題についてであろう。

 【このコは、僕の命なんです――】

 センセーションを具現する大々的な見出し、草臥れて紐の解れきったくま、艶のある白くなめらかな肌、アッシュシルバーのメッシュが入る整ったヘアスタイル、涼しげな瞳。

 それは今朝SNSで話題になっていたものだったので、僕も幾分かの内容は理解していた。彼の名前に加えて「汚れたくま」「ぬいぐるみ」「ジェンダーレス男子」などというキーワードがトレンドを占めており、それらはワイドショーでは一切取り上げられていないものの、ネットニュースではどこもメインの話題を占めていた。カワイイ、アリエナイ、キモイ、ギャップモエ、ゲンメツ、マジナイ、ヤッパカワイイ等等、それぞれの箱から飛び出された玩具の銃撃戦。台風の日の速すぎる川の流れみたいだ。

 女はどうやらこの透明感溢れる美形の男がぬいぐるみを抱く感覚を異質だとは感じていないらしいが、対して団子っ鼻男はその話題に対して理解不能、男女は話が全く噛み合っていないようだった。

 彼らが交際関係にあるのか、そうでないのか、それらにおいては分からない。それは街を歩くつがい店についてもそうだし、熟年夫婦を装った男女についてもそうで、客観視しかできない他人には読解不可である。
 だがたった今、解れた関係の引鉄を古ぼけた熊が引いてしまったことだけは安易に推察できる。愛するものとは、愛しきものとは、誰が求めるものでもなく、ただ自らの中でしか生かせない、そういうものなのだと。情欲に無償の理解を乞うことはできない。


 ーー「車内混み合いますので、中ほどまでお進み下さい」


 更に人がごった返す中でも、真っ黒い窓に自分のスマホ画面はよく輝き、反射した。暗闇に主張する画面の煌めきが美しいと思うのはエゴか。自然に生え伸びた花よりも誰かが管理した方が美しいし、手を加えていない公園の桜よりも、ピンクライトで照らされた六本木の桜の方がずっと綺麗だ。自然に咲いたものよりも人が手を加えている方が美しいのに、例えば、ハンドメイド品だとか、他人の手料理だとか、そういった手を加えた当人が目の前でチラつくと瞬間的に拒絶心が顔を出す。一点を見つめているとメッセージアプリに通知された公式アカウントの常套句がピコンという音を立てて光るので、諦めてポケットへとおさめる。

 光を失ってしまったせいで手持ち無沙汰になった左手を地面へと翳したら爪の白がよく透けた。もう片方まで手すりから手を離した衝動で、酔っ払いみたいにふらふら足が放られる。そこそこ人の乗った電車で一歩二歩分、斑にしか空いていない足元に何をしているのかは自分含め誰にもわかり得ないが、それでもやはり爪はよく透けてゆく。デジタル時計の数字が暗闇に浮かび上がるみたいに。


 ――「 次は渋谷、渋谷。」


 お出口は右側です。東急東横線、東急田園都市線、京王井の頭線、地下鉄銀座線、半蔵門線、副都心線はお乗り換えです。ホームの電車の幅が広く空いている箇所が御座いますので足元にご注意ください――

 切れ味の良い車掌の声を伴ったブレーキの感覚とともに緩やかに停車し、嚔のごとく開いたドアから吐き出される人の群れに身を擬態させて左足からホームへと着地すると、世界において自分は異物なのだとさえ思えて安心した。無垢で粗雑な階段は一歩が小さくても赦されて、右上に描かれた誰かの落書きは多分、それは残した誰かの千切れた叫び、そして刺青。落とした指輪の欠片は荒いコンクリートの段を跳ね叩くように角を滑っていく。重ね付けしたファッションリングは、時折跨ぐ継ぎ目に抗う僕みたいだった。何も契らなくたっていいから、足を踏み出すごとに明日を憂いていたい。

 馬鹿の一つ覚えみたいに未だ透けた白を凝視していたら、鉄骨に覆われた黒が迎えに来た。大きなクレーンがこの街の光を切り刻むみたいに穿いて、その行為でネイビーの夜闇に割いた黒い未確認生物みたいな飛行機がチカチカと点滅し、それへと答える如く挨拶をする。さあ、ゴキゲンヨウ。




𝑵𝑬𝑿𝑻:第二楽章  悪しき卯月 ↓

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