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「良い形で本に出会えれば、人は読む」という暗黙の前提(Beloved by Toni Morrison) | きのう、なに読んだ?

トニ・モリスンの代表作 Beloved を読んだ。

内容紹介を日本語版のAmazonページより引用させていただく。

元奴隷のセサとその娘は幽霊屋敷に暮らしていた。長年怒れる霊に蹂躙されてきたが、セサはそれが彼女の死んだ赤ん坊の復讐と信じ耐え続けた。やがて、旧知の仲間が幽霊を追い払い、屋敷に平穏が訪れるかに思えた。しかし、謎の若い女「ビラヴド」の到来が、再び母娘を狂気の日々に追い込む。死んだ赤ん坊の墓碑銘と同じ名のこの女は、一体何者なのか?ノーベル賞受賞の契機となった著者の代表作。ピュリッツァー賞受賞。

私の感想をぽつぽつと:
◉自由と尊厳を許されなかった奴隷だからこそ、いったん獲得した自由と尊厳は命がけで守る。自分が産んだ子どももいつのまにか取り上げられて売られてしまう状況から逃れたからこそ、自分は子どもを何としても守る。
◉飢餓を経験した人が、その後食べ物に不自由しなくなったとき、食べ物をすごく大切にし続けるケースもあれば、極端な飽食に走るケースもある。それに似て、自由、尊厳、家族を許されなかった人が、その後それらを手に入れた時、落ち着いて大切に守ろうとするケースもあれば、極端な行動に走ってしまうケースもある。
◉過去の痛みを象徴する存在(母に殺された幼子)が蘇り、家族を翻弄する。それをきっかけに、一人ひとりが、蓋をしてきた自分の過去の痛みと向き合って行動を起こしはじめた。そうしたら、蘇ったものは、消えた。みんな前を向いて生き始め、痛みは受け継がずに済むこととなった。 It’s not a story to pass on.
◉逆にいえば、私たちも自分の過去の痛みに蓋をし向き合わないままでいると、周りや次世代に伝播し、彼らが前を向いて生きていくことを阻害するのかもしれない。
◉ “Ella didn’t like the idea of past errors taking possession of the present...the past was something to leave behind. And if it didn’t stay behind, well, you might have to stomp it out.” (エラは、過去の過ちが現在を支配するという考えが気に入らなかった。過去は置いて行くものだ。もし過去が追いかけて来るなら、まあ、追い出さないといけないこともある。)

感想めいたことを散漫に書いたけれど、いろんな角度から様々な感情と考察を呼び起こす本だと思う。1回通読したので、次は落ち着いて読めそう。そうしたら、今回は読み飛ばしてしまったディテールに気づけるかもしれない。

それにしても、本格的な文学作品を読むのは何年ぶりだろう。格闘した感がある。いまは気持ちも時間もゆとりがあるから取り組めたけど、もしまた仕事かなにかに全力投球したら、もう「次」はしばらく来ないかもしれない。

さて、トニ・モリスンは1993年にノーベル文学賞を受賞している。Beloved は代表作だ。

それでふと思ったのだけれど、文学以外のノーベル賞受賞者の業績は、学術論文だ。受賞理由のもととなった論文を読んで理解するには、それなりの専門知識が必要だ。私には、どの論文も理解できない。素養がないからだ。一方、例えば2013年ノーベル賞を受賞したヒッグス粒子の論文を、早野龍五さんは福島高校のスーパーサイエンスコースの生徒たちに英語で解説したところ、とても反応がよく授業後も質問が途切れなかったという。つまり、ノーベル賞級の論文も、興味をもって勉強している高校生なら、専門家が英語で解説しても理解も質問もできるのだ。

じゃあ、文学は?ノーベル文学賞受賞者の作品を読んだけれど、私は理解できたのだろうか。ノーベル文学賞に値する作品を理解するための素養は、物理学賞の論文を理解するための素養に、実は匹敵するんじゃないだろうか。

こんなことを考えたのは、小中高生の小中高校生の読書活動に関する文科省の諮問委員会の報告書を見て、ちょっと疑問を感じたから。報告書の内容を、私の理解した範囲で紹介する。

●本を月1冊も読まない子の比率は、小学校5.6%、中学校15.0%、高校50.4%。高校生の比率をまず40%まで下げたいが、うまくいってない。
●「勉強する時間やメディアを利用する時間が放課後の時間の多くを占めている実態があることに鑑みると,高校生の時期の子供が多忙の中でも読書をするきっかけを作り出す必要がある。」
●「高校生の時期の子供は,友人等同世代の者から受ける影響が大きい傾向があることから,読書をするきっかけを作り出す方法としては,友人等からの働き掛けを伴う,子供同士で本を紹介するような取組の充実が有効であると考えられる。」
●したがって、高校生にもっと本を読んでもらうには「読書会,ペア読書,読み聞かせ会,ブックトーク,アニマシオンや,書評合戦(ビブリオバトル)等」といった方法を提言する。

いろいろツッコミどころがあるが、いちばん気になったのは、「良い形で本に出会えれば、人は本を読むようになる」ことが暗黙の前提になっていることだ。本1冊を読み通して理解するなんて、字が読めれば誰でもできる、と。でも、本当にそうだろうか。「あの本/記事は、私には難しい」とギブアップしたこと、私には何度もある。字は読めるのに。

もしかすると、本を読むことは、音楽を演奏することやお芝居を演じることに近いのかもしれない。音楽は作曲/演奏/鑑賞、お芝居は執筆/演出と演技/観劇、の3ステップある。読書はたいてい一人でするものなので気付きにくいが、実は、演奏や演技に相当するステップがある。自分一人の中で、演奏と鑑賞の二役を同時にこなしているイメージだ。

以前、こちらのnote で、本を読んで学べる人なんてごく一部に過ぎない、という主張を紹介した。

(本が読める)人たちは読みながら「これで思い出したけど…」「この主張はあれとは矛盾するなあ…」「この論点はよく理解できない…」など自問自答を重ねている。読んでいる最中に内容を要約し、意味合いを抽出し、分析している。これは学習の科学において「メタ認知」と呼ばれるスキルで、できない人が多いし、できる人にとっても負担が大きいことが、研究で知られている。

これはノンフィクションに関する記述だったけれど、フィクションでも同じような構造がある。私が Beloved の感想で書いたことは、個人的な経験とそこから学んだこと、またこれまで見てきた本や映画などの作品から感じたことに紐付いている。「これで思い出したけど…」「登場人物のこの行動が象徴するのは…」「ここで文体が変わって感覚が刺激されたのは、あれに似てる…」など。

実は読書は、音楽で言えば音楽鑑賞よりも楽器演奏に、お芝居で言えば演劇鑑賞よりも演技や演出に近い行為ではないか。

本を1冊読み通し何かを感じる方法を、私はほぼ独学で身につけた。もちろん学校の授業などで学んだことを大いに活用している。でも「本を1冊読み、味わう」ことを具体的に学んだことはない。それに近い教育は、アメリカのど田舎の高校で1年間だけ、経験した。本まるごと1冊を教材とし、授業は毎日あって、ちょっとずつ読み進めては宿題のプリントと授業中のディスカッションで理解を深めた。

私が本を読み味わえるようになったのは「たまたま身近に楽器があって、弾くようになった」「映画が好きで真似しているうちに演技ができるようになった」のと同じくらい、幸運と偶然の産物なのではないだろうか。私はたまたま「独学」で本を読めるようになった。独学ではできない人でも、適切なレッスンがあればできるようになる、かもしれない。読書ってそういう性質のものなのかも。

教育界、出版界などから「日本人は本を読まなくなった」という嘆きと「もっと読んでほしい」という願いが発信されるのをきく。それには、本に出会う機会を増やすことも大事だけれど、それだけでは足りないんじゃないか。もしかしたら、楽器メーカーが音楽教室を運営しているように、出版社が「読書教室」を運営するくらいのことが、あっていいのかもしれない。

(Picture by West Point - the U.S. Military Academy)

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