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日本語と英語、日本社会とアメリカ社会 | 『不機嫌な英語たち』(吉原真里)イベント | きのう、なに読んだ?

旧友の吉原真里さんの著書『不機嫌な英語たち』刊行記念イベントのモデレーターをつとめました。めちゃめちゃ刺激的で面白かった!せっかくなので印象に残ったところを簡単にメモしておきます。

吉原さんはハワイ大学教授で専門はアメリカ研究、日本エッセイストクラブ賞を受賞した『親愛なるレニー』の著者です。学生時代からの旧友でして、今回のモデレーター役も大喜びでお引き受けしました。

不機嫌な英語たち』は、日米で過ごした年月が人生の半分ずつになっている吉原さんの自伝的私小説です。短編集のような仕立てで、ふたつの言語と複数の重層的な社会文脈の中で生きる複雑さ、割り切れなさ、葛藤を扱っています。章の間に数編の英文の短編が入っているところにも著者の意図を感じました。

イベントで特に印象に残った話題3つについて、書きますね。


①話し手・書き手自身の固有の文脈と、表現

研究・執筆のために、吉原さんはアメリカで活躍するアジア系のクラシック音楽家に多数インタビューをしています。20年前と現在を比較すると、アジア系である(そう見られる)ことに関する割り切れなさや葛藤はあまり変わらない。一方で大きく変わったのは、その感覚を音楽家たちが racism, feminism, intersectionality... といった言葉を使って表現するようになったこと。これらの表現は元々は社会学系の概念で、この10年ほどアメリカの社会情勢の中で政治性を帯びつつ一般の人も使うようになった言葉です。

この話も興味深いんですが、さらに味わい深かったのは、音楽家たちと対照した吉原さんの本書の執筆動機でした。

吉原さんは音楽家たちとは異なり、専門家としてracism, feminism, intersectionality... といった概念を使ってきたんだけれど、逆に個人としての割り切れなさや葛藤はそれらの言葉を使わずに表現したかった。というより、それらを使っては表現できないと感じたのではないでしょうか。その結果、私小説という形式をとり、日英両方の言葉で書くことにした、というお話でした。つまり「日本語にしかない言い回しがある」といった次元とは異なる、その人固有の文脈によって表現手段の持つ意味が変わってくるという話です。社会学系の研究者の吉原さんだから、ノンフィクションではなく私小説としてこのテーマを書く意味と必然性があった。そうなると、英語で書いたエピソードはなぜ英語の必要があったのか、という問いもこの観点で紐解けば、新たな側面が現れそうですよね。

私自身、小学生、高校生、大学院と3回アメリカで暮らし、東京で欧米系企業で働いた時期もあって、そうした経験と重ねながらこの本を読み吉原さんのお話を聞きました。さらに、日本においても私は社会的な意味づけが異なる複数のアイデンティティーを負ってきたことに、今この文章を書いて改めて気づきました。その点でも本書と吉原さんの話に深いところで繋がりを感じたんだろうな、と。

②聴き手・読者の文脈と、表現

吉原さんは、日本語で書いた部分は日本の読者と共有している文脈を、英語部分はアメリカの社会状況が共有できていることを、それぞれ前提にして、エピソードと想定読者をマッチングし、どちらの言語で書くかを決めた、という趣旨のお話をしていました。

これも言語というよりも、コミュニケーションの質に関わる示唆がありますね。私がいま表現したいことが10あるとしても、相手の文脈によって通じやすい話題もあれば通じにくい話題もあるから、誰彼構わず10を伝えることはしない。伝え方も相手によって変える。こう書くと当たり前のようですが、それを意図的にデザインする感覚はもっと強く持ってもいいなと思いました。

本書では、英語の文体の方が日本語よりもくだけた印象を受けました。吉原さんにきいたら「わざわざ英語部分を読む人はかなり深くこの本に入ってきているわけだから、より親しさを感じる」といった趣旨の話をしてました。(たぶん。記憶があいまい)

③日英の表現の違いと、社会構造

参加者から私にもご質問いただきました。そこで、英語だと端的な表現で質問するけれど、日本語で同じようにするとキツい印象を与えてしまう恐れがある、という私見を申し上げました。

その後、別の参加者が話しかけてくださいました。その方は医師で、英語話者は診察時間が短いというのです。英語話者は、診察して、見立てと治療方針、つまりWhat, Why, How を箇条書きのように伝えるだけで納得して帰る。それと比べると、一般に日本の患者さんは「それは痛かったでしょう。大変でしたね」のように共感をしっかり示さないと満足していただけない、ということでした。

お話をきいて、山岸俊男さんの『安心社会から信頼社会へ』を思い出しました。初対面の相手とまず「安心できる」人間関係を築いてから取引に入るか、相手が「信頼できる」かを初見で見極める力をつけてすぐ取引するか。日本社会は前者、アメリカ社会は後者の傾向が強い、という内容だったと記憶しています。

日英の質問表現の違いは、言語の特徴というより社会構造の特徴から来ているのかもしれない、という気づきがありました。

今日は、以上です。ごきげんよう。

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