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日本教のドグマ「空気」について

何が日本人を日本人たらしめているのか?

日本人のルーツを理解するためには「日本教」の理解が不可欠である。
日本人を理解するツールとして「日本教」という概念を考えたのが山本七平である。

山本七平はイザヤ・ベンダサンの筆名で書いた『日本人とユダヤ人』など数々の問題作を生み出している。

ウィキペディアには評論家と紹介が載るだけだが、彼の宗教や社会学に対しての精通具合は計り知れないと思う。彼が日本人の行動様式を理解するために生み出した概念「日本教」を中心に「空気」「空体語・実体語」などを総称して山本学と呼ばれたほどだ。

彼がもたらした日本教と言う概念を理解すれば日本人を理解することができるかもしれない。

しかし、この日本教というもの、輪郭を掴むのが本当に難しい。
彼の意見を体系的にまとめた本が見当たらないからだ。

その中でようやく探し当てたのが「日本教の社会学」。

小室直樹氏はスーパー社会学者。法学博士の学位を持っているが、数学や経済などのバックグラウンドも併せ持つ。著書は多数。なかでもソビエト崩壊を言い当てた『ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく』(光文社カッパ、のち文庫)で一躍有名になった。

本書は、山本七平と社会学者小室直樹氏の対談形式で日本教についての議論が展開される。

日本教理解のための入り口としてまずはこの本から始めるのが良さそうだ。まずはこの本を参考にながら、山本七平の日本教の概念を明らかにしていきたい。

宗教の構造

まずは手始めに宗教の構造について整理。

まずは構造神学的にみるとキリスト教など一神教宗教では

①ドグマ
②サクラメント
③神義論
④ファンダメンタリズム

が重要な役割を果たす。

本書では、日本教という概念について上記に対応するものを検討する方法で、その輪郭を明らかにされていく。

まずは日本教のドグマについて明らかにしたい。


日本教のドグマ「空気」について

ドグマとは宗教の教えを体系化したものだ。そんなもの日本にあるのか?答えは否であろう。そんなもの見たことも聞いたこともないはずだ。

しかし、構造上ドグマと同じような機能を持っているものがあると本書は言及する。

まずはドグマがもつ社会的機能について明確にしよう。
ドグマが持つ社会的機能とは、規範的に絶対であり、所与性を持つことだ。つまり従わなければいけないもので、それを変更することは容易ではないということだ。また同時にそれは、集団加入のための判定条件だ。従わなければ集団から外される。

そうした観点で日本教のドグマと同じ機能を持つものはないかと突き詰めると、あるものに行きつくのである。それが「空気」である。


「空気」とは一体何か?と言われると、説明なくなんとなくはわかるかもしれない。読まないといないあれのことだ。空気を読む。

でもそれだけだと本当に「空気」というものがあるんだかなんだか怪しい。「空気」は非常にあやふやでふわふわした概念だ。

これは「日本人とユダヤ人」を読むと少し輪郭が見えてくる。書で挙げられている重要なポイントとして、あらゆる宗教キリスト教でも仏教でも儒教でも日本に入ってくれば似てもにつかないものに変容してしまう、というのがあるここでは例を挙げないが、外国から入ってきた宗教はあっという間に日本教の分派になってしまうのだ。つまり、キリスト教徒の日本人ではなく、日本教徒キリスト派になってしまうのである。

これはつまり、宗教を骨抜きにする排除の原則が日本にある、ということだ。この原理原則こそが空気であり、日本教のドグマだと山本氏は指摘する。たしかに空気は存在しそうだ。

さらに進めると、先程ドグマは集団加入のための判定条件だと言った。つまり空気が日本教のドグマであるとすると、空気を読まないものは集団加入することができないということになる。

このような状況は日本のあらゆる場所でその実際を確認することが可能であろう。空気を読まない人はクラスでいじめられたり仕事で干されたりする。
空気は読まないと集団加入はできない。

さらに、本書の太平洋戦争の例がその規範的絶対性を示す。

おもしろいのは、そのころの三国同盟をめぐっての枢密院の会議です。日独伊三国同盟を政府が締結しようとすると、初めは、ほとんどの枢密顧問官が反対なんです。反対の理由いろいろ述べるわけです。ところが最後になって決を取るでしょう。そうすると全員が「事ここに至る。いま判定するということは無意味である。帝国の方針を遅延せしむる以外に、いかなる意味を持たない。だから賛成。」と。国策決定にあたってように人々が影響するのは当時の「空気」であって自分の意見ではないわけです。(日本教の社会学p146)

空気は群集心理ではない。上記は、専門家討論の結果である。このようなエリートでさえ、空気の前ではいとも弱き存在だということだ。つまり空気には絶対に従わなければならないし、それを変更することはできない。空気は規範的に絶対であり、所与性をもっている。


ところで、キリスト教だとどうだろうか。ここで出てくるのが契約。絶対的一神との契約と言う考え方があるが故、絶対に「空気」と言う概念は発生のしようがない。契約が明示的に規範性を有するからだ。つまりその裏返し、明示された契約という概念がないからこそ日本教にはふわふわと揺らぐ空気というドグマが成立するのだ


空気の恐ろしさについて

空気の恐ろしいところは事実判断と規範判断の区別がなくなると言うことである。小室直樹氏が身近な事例を用意しているがこれは多くの人が経験しているかもしれない。

年配者の若手に対するお説教のタイプ。「お前よくわかっていないな、世の中と言うのはそういうもんじゃないぞ」と。この説教に対して、「世の中はおっしゃる通りかもしれませんが、それを正しくありません、改革すべきです。」なんていったら大変。おっさんがゆでだこのごとく怒るに決まっています。(日本教の社会学p148)


これを氏は事実と規範との無媒介的癒着と呼んだ。

空気は事実より優先されるということ。これが空気のドグマの恐ろしいところである。

この話の延長なのだが、事実と実情という言葉の違いが面白い。

実情とは何か?辞書的な意味ではいつわらない思いのことだ。

さて、ここで重要なのが、日本では事実と実情のどちらが優先されるか、という問題だ。先程の例でもうお分かりかもしれないが、実情が事実を優先する。事実を優先するとおじさんがゆでだこのように怒り出すのだ。

日本教のルールは実情>>>>>>事実である。

だから事実をいうことは嘘つきである、なんてことになる。事実ではなく、実情を言わなければいけないというのだ。


空気と水

さて、このやっかいものの「空気」を潰す方法はあるのか。
それは事実を事実として言うことである。言い換えるとそれは水を差すと呼ぶ。

もちろん水を差すと言う行為は日本教の側からすると背教である。だからとんでもないバッシングを日本中から受けることになる、というのも言わずもがなだろう。TwitterなどのSNSを見ればそれは明らかなことである。

ちょっと前の日本では背教した瞬間、居場所はなかったように思う。だからそれをするハードルは非常に高かった。

しかし近年この「空気」と言うドグマに対して水を差すと言う行為を積極的に活動している人が増えていると思う。最近の著名人だとホリエモンとかその辺の人だろう。

その日本教のドグマから背教した集団が形成するのがオンラインサロンだったりするんじゃないかなと思う。サロンの主催者が教祖であり主催者の言うことが絶対である。そのコミュニティ内では、明確な規範が存在するから「空気」と言うあやふやな規範は抹消される。だからそこは日本教ではない別の宗教が存在するのかもしれない。

ただ一方で、日本全体としてはいまだ「空気」が幅を利かせているのはいうまでもないと思う。むしろ水を差す人間が現れれば現れるほど強力化しているように見える。背教した人間へのバッシングの声は大きくなる。空気は水をさすほど、強力になる一面もある。

その空気のダイナミズムを山本氏は空体語・実体語という概念を使って説明する。

次回は空体語・実体語について書く。

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