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細野豪志議員のカルト被害防止法案に賛成できない理由に賛成できない理由

 先日、自民党衆議院議員の細野豪志氏が次の記事を投稿し、物議を醸している。

 簡単に言うと、統一教会への規制強化を進めることはテロに屈することになるからしてはならない、特に今回は民主主義の選挙で選ばれた政治家が殺されたのでなおさらだ、というものだ。

 その「テロに屈しない」というフレーズはすっかり聞き慣れこれまで特に疑うことなどなかったが、それはひとたびテロが起こったなら、少しでもテロリストの意向に沿うようなことは何であっても絶対にしてはならないということまでを意味してしまうものだったのだろうか。

 例えば、安倍元首相が暗殺された後、犯人の山上徹也が就職氷河期世代の非正規雇用労働者だったこともあり、「次は竹中」と、小泉政権下で労働者の派遣化を推し進めた中心人物である竹中平蔵氏の殺害を囃し立てるような言説が一時ネット上で流行したが、もし誰かが非正規雇用者の待遇改善を訴えて本当にそれを実行してしまった場合、一体どうするのか。
 細野氏の論理を当てはめれば、非正規雇用者の待遇改善はテロに屈することになるのでしてはならないということになるのだが、それでよいのか。

 あるいは、もしロシアで反戦活動家がプーチン大統領を暗殺したらどうするのか。プーチンといえど一応民主的に選ばれた政治家が暴力で殺害されたことに変わりは無く、民主主義を攻撃した者の意見を聞いてはならないという理念を守ろうとすると、後継者がウクライナ侵攻を続けることを支持しなければならないことになるのだが、それでよいのか。

 仮定の話であるが、さすがにそうはならないだろう。
 統一教会の場合は被害の多くが過去のもので今となってはそこまで重くない問題と捉え、とりあえずこれまでのテロに屈しない理念の方が重いと深淵で天秤にかけられており、天秤の片側に乗るもの次第で結論が変わってしまうような気がしてならない。

 プーチンを暗殺すれば、普通に考えれば、テロリストではなくウクライナを救った英雄になるだろう。
 少なくとも、我々が属する西側民主主義社会においては、だが。

 そもそもこの「テロに屈しない=テロリストの意に沿うことはしない」とする話は、我々が想定している主なテロリストが連合赤軍やイスラム原理主義組織、欧米ならそれに加えて極端な人種差別主義者など、西側民主主義社会の外側から我々に荒唐無稽な要求をしてくるものであったから成り立っていたのではないか。

 それに、西側民主主義国家と敵対するそんなテロ支援国家や覇権主義的な独裁国家にとっても自身に対するテロは敵である。また、多くの民主主義国家自体も前体制へのテロによって成立し、現在も民衆に政府への「抵抗権」が内包されているとする考え方もある。
 テロは「民主主義の敵」というよりも「体制の敵」である。
 ここしばらく我々の見える範囲でテロを起こしていたのが「西側民主主義の敵」ばかりであったに過ぎない。

 そうではない西側民主主義の内側から、「誰もがなんとかすべきと思いつつもずっと放置されている問題」の改善を叫ぶテロリストが現れた場合、旧来の各過激派像を前提に構築されたテロに屈しない原則をあてはめると、問題を解決して社会を良くしてはならないという矛盾に陥ってしまう。

 細野氏が例に挙げている昭和のテロの連鎖とて、青年将校たちが掲げた主張の「農村部の窮状の解決」という部分などはまさにそういう問題で、その「テロリストの正しい指摘」にいつまでも政府が対応できなかったから民衆がテロリストを支持し、次から次に続く者が現れた、という見方もできる。

 さらに、杓子定規にテロリストの主張には絶対に沿わないという命題を貫き通そうとすると、自身の主張とは反対のことを掲げてテロを起こせば逆に本来の要求が通るという状況が、少なくとも論理上は生じてしまう。

 こうなってくると、やはりテロはテロ、指摘された問題は問題と、切り分けて考え、テロに屈するとはどういうことなのか改めて定義していく必要があるのではないか。

 きっかけはテロであったとしても多くの民衆がある問題に興味を持ち、是々非々で検討を重ね、その結果を踏まえて政府が措置を講じ、問題が多少解決される…たとえその結果がテロリストの意に沿ってしまうものであったとしても、そんな民主的なプロセスまで、過激派テロリストの荒唐無稽な要求をすんなりと飲むことと同列にテロに屈するということに含めるべきではないだろう。

 民主主義の最根幹は民衆の多数決である。テロリストは犯罪者として処罰しつつも、多数派がテロリストの主張に正しい部分があると思えば、それに合う政策を実行する。それが民主主義の原則ではないか。

 もちろん、そのように社会がテロリストの願望に沿った行動をしてしまうと、テロの連鎖が起きやがて崩壊に繋がるという細野氏の懸念自体は正しいだろうし、同意する。
 そしていくら民主主義といえど、時には大衆の熱狂を鎮めることも為政者には必要であることも理解できる。民衆の熱意と為政者の理性は民主主義の両輪である。

 そうだとしても、何事にも危険性は含まれる。
 独裁国家は指導者が有能であれば多くの民衆が愚かでも発展できるが、民主主義国家は多くの民衆が判断を誤れば没落する。元よりそういった危険性と表裏一体だ。何事も一長一短があり、完璧な体制など存在しない。
 いくら時の民衆の判断に将来的な危険潜んでいるからといって、冷静を装う人が恣意的に原則を変えられてしまうことにもまた別の将来的な危険性は孕まれる。

 特に今回、統一教会追求に後先考えず熱を上げる民衆を冷ますためといって、細野氏ら保守派が使う「テロリストの願望に沿ったらいつか来た道に戻る」、「テロに屈しないために民意や被害者は無視してでもカルトを野放しにするべき」という論理は、常日頃彼らが国の滅亡に繋がると批判している「軍隊を持ったらいつか来た道に戻る」、「戦争をしないために武器を持たず侵略されても戦わずに降伏して話し合うべき」という左派の主張からそう遠くないところにあるように見えて仕方ないのだ。

 いつか来た道と違う道が、いつか来た道よりも安全とは限らない。
 いつか来た道であっても、2回目なら途中でより良い分岐を見つけることができるかもしれない。
 どの道が正しいのかは、後になってみないとわからない。

 一つ言えることは、テロは貧困から起きやすいということだ。昭和の時もそうだし、今回の山上徹也もそうだ。イスラム原理主義組織も貧困層の若者を勧誘のターゲットにしている。
 テロの連鎖を防ぎたいのであれば、先に挙げた非正規雇用の問題をはじめ、相変わらず蔓延るブラック企業の過酷な労働環境、シルバー民主主義による世代間格差、富裕層の過剰な優遇など若者の貧困の温床となる問題を、テロリストに先回りして解決することが最優先なのではないのだろうか。


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