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Knight and Mist-interlude-セシルサイド

赤い月が見えていた。

月が赤いのではない。眼底に血がたまってそう見えるのだ。

こんな風景を前にも見た、とセシルはグッタリしながら思った。

そこは汚物がそのままの薄暗い牢だった。尖塔の上の牢屋で、窓があるところには頑丈な鉄格子が嵌められている。

異端審問院の特別牢だ。

こんなにも憂鬱になる場所は他にないとセシルは思ったが、同時に自分に似合いであるとも知っていた。

思い出すかぎり、自分がまともだったのは8才とかそこらまでだ。そのときにはすでに魔導は心得ていたし、母親の自慢の息子だった。

だがその歳に両親をなくし、幼くしてセシルは盗賊に売られ、買われた先では奴隷としてモノのように扱われた。

なんとか脱出したものの、その過程でセシルは壊れてしまったらしい。

奴隷として売られ、暴力を振るわれて最初に逃げ出した夜だ。草むらに座り込んで、月を見上げていた。

人間がこんなに気色悪いモノだとは思わなかった。

セシルは欲を嫌悪し、醜さを嫌悪し、何より何もできない自分を呪った。

そんなときだ。

女の子の泣く声が聞こえた。あたりを見回しても、聞こえているのは自分だけのようだった。

(なにがあったの? どうして泣いているの?)

しかし女の子は泣くばかりで返事をしない。

ややあって、セシルの心に寒々しい気持ちが流れ込んできた。孤独。絶望。悲しみ。

次第に彼女もまた同じく壊れそうなのだと気づいた。誰も彼女のことが分からず、それでおかしくなりそうなのだと。

何ひとつ変えられない自分だが、彼女の理解者でいよう、幼い日のセシルはそう決意した。

お父さんも、お母さんも、村のみんなも。誰ひとり救えなかったぶん、この子の心だけは救ってみせる。

そう思うと勇気が湧いてきて、そして彼はやれることをなんでもやった。

良心なんてものは粉々に打ち砕かれていたから、彼女への同情も、もはや真似事なのかもしれないし、あるいは世の中にはいいものもあるのだと自分を納得させたかっただけかもしれない。

15にもなると盗賊の頭として大勢を殺した。状況がややこしくなるにつれ、セシルは釣り合いをとるために心の中の少女の声に傾倒していった。

どこにいるのか探すために寺院を訪れ、世界中をまわってすべての伝承を探し、本を読み、魔導書を探し求め、とにかく探してまわった。

女の子は自分とともに年齢を重ねていって、それにつれ流れてくる感情も変わってしまった。彼女はひどい罪悪感に苛まれているようだった。セシルはそれをおかしく思った。自分は正直何も感じないのに、善人であるはずの彼女がなぜそこまで自分を恥じるのか分からなかった。

彼女の感情は通り雨のようだった。さあっと悲しみが流れて、去っていってしまう。そのあとにはセシルの心に虹がかかるのだ。それは彼が唯一抱いている絆だった。

(初めて会ったときはびっくりした顔をしていた……)

ハルカの顔を思い出してクスクス笑うセシル。その反動で咳が出て、血を吐いた。それでもセシルは微笑った。

(いつまでも懐いてくれなくて困ったものだ)

ハルカと過ごしたわずかなときを思い返しながら、セシルは微笑った。いろいろあった。だいたいいつも死ぬほど心配させられた。柄にもなくハルカに近づく人間みんなに嫉妬してしまったこと、突然やってきた失う恐怖、だがそれよりも。

彼女のあどけない笑顔、怪訝に窺う顔、無防備に眠っている顔、それらすべてが全部セシルの宝物となった。自分ではぎこちなくしか接することができなかったのに、彼女はすぐに自分を信用してくれて、受け容れてくれた。

基本誰に対しても従順でもう少し他人とは距離を置いて欲しいというのがセシルの希望だったが、自分すら受け容れるお人好しなので仕方ないと諦めざるをえなかった。

彼女がこの"絆"を知らなかったことには、はじめ驚いたが、すぐにどうでもよくなってしまった。長年憧れ続けた女の子が目の前にいるだけで奇跡だった。

(それを思うと、死にたくないなあ……)

セシルは部屋を染める血溜まりを見た。前の住人のものなのか、セシルのものなのか区別がつかなかった。尋問により肋骨が何本か折れていたし、肩の関節は外れている。さらに鞭によってあちこち皮膚が裂けていたからあたりじゅう血塗れだ。鼻はとうにきかなくなっていた。

(こういうところでひっそり死のうと思って死にそびれてきたのに、今となっては心残りがあるとは……)

セシルはハルカを想った。

彼女からどう思われようと、彼女を助けることが自分の使命だ。だが実際には、彼女を怪我から守れても、政治的に守れても、心を守るのはとても難しいことだった。

(どうせ死ぬならその前に髪に触れたいな……)

だが、こんな血生臭い場所には来てほしくないし、血だらけの手で触れるわけにもいかないので、想像で我慢することにした。

(時折見せる照れた顔、可愛かったな……)

あれだけでも死んでいいと本気で思ったことを思い出した。だからこそ、ハルカが笑顔を向ける人間に対して本気で殺意がわいたわけだが。

(我ながら大した自制心だった)

誰にも悟られてはいないだろう。そう思うとまた愉快でセシルはクックックッ、と笑った。そしてまた咳をして血を吐いた。折れている肋骨が痛む。

今日は生きているが明日まではもたないだろう。もう二度と彼女の顔を見ることができない、そう思うと少し寂しく感じた。

彼女はきっと自分を忘れるだろう。悲しんでほしくないからそれでいい。だが少しだけ心が痛んだ。

(思えばいろんな感情に巻き込まれたものだ)

でもそのほとんどがセシルにとっては愉快だった。本人は自分の前で突っ張っていたが、本音がダダ漏れとは想像もしていなかったに違いない。

それから死を受け入れたときのことを考えた。

イスカゼーレの情報が入るのが少し遅かった。そのタイミングで《魔霧ミスト》によりハルカを見失ってしまった。

魔霧ミスト》は世界に空いた穴だ。そう理解していれば穴に落ちることもない。だがハルカが魔族のいる層まで落ちてしまった。

助けに行こうとしたところで、情報が入った。

そのときに男が言った。

『お前が命を差し出す覚悟ならば、私が助けとなろう』

気に食わない輩だったが、どうせ三下だ。セシルは申し出を受けた。

「命を差し出すとはいっても、異端審問院は反則ですよ……」

セシルはボヤいた。最後に会ったとき、彼女はイスカゼーレの人間に囚われていた。無事逃げられたのだろうか。それだけでも確認がしたい。

異端審問院には魔導を封じる結界が張られている。セシルの探知機能も封じられていて、彼女が生きているのかどうかさえ分からなかった。

それは心に穴があいたみたいだ。ずっとそこに彼女がいたのだから。

彼が奴隷として耐え忍んだ日も、怒りのままに人を欺き、殺め、陥れた日も、神に祈った日も、魔王にとどめを刺すときに瀕死の重傷を負った日も、盗賊としての自分が処刑された日も、死んだ人間として諜報機関で活動していた日も、何をしていても彼女の存在はセシルのなかにあった。

彼女の差し出す哀しみを、歪な形で愛に変え、渡したつもりだった。それが伝わらなかったのは分かっている。

ただ死んでほしくなかった。

セシル自身はかなり不幸な生い立ちだ。だが誰から見ても分かる不幸だ。それに復讐もしている。

彼女のなかは空っぽになって、意思があるふりをしてなんとか動いているだけだった。

彼女だってじゅうぶんに壊れている。しかも取り繕うのがうまいからなかなか分からない。

自分にしか分からない、それがちょっとした優越感だった。そんな感情さえ面白かった。自分がくだらないと蔑み、憎んできたモノに成り下がっても、それで逆に初めて悲しみを知った。

自分を愛して欲しい、という悲しみだった。

それはさすがに愉快とは言えなかった。その資格がないのは分かっている。だから救えればそれだけでいいのにーー

彼女の隣に誰かが立つたびに、いつかはどこかへ行ってしまうと感じた。

それが自分のもとではありえないことも知っていた。分かっていたのに、見守っているのだと自分に言い訳して、誰かと特別な関係を築いてしまうのではないかと心配してずっと見ていた。

どんなに揶揄されようと、陰から守っているだけのつもりだった。

(ありゃちがうな。情けない、ただの独占欲だ。この僕としたことが、ここまで落ちぶれるとは!)

彼女の目を通して見ると、自分がとてもすごい人間のように感じる。だからそれを崩したくなくてだいぶカッコもつけた。

どうせ死ぬなら情けない姿を晒してでも自分の思いを知っていて欲しかっただろうかーー?

ふと疑問に思い、苦笑した。

(死んでもイヤだな。それだけはイヤだ)

"カッコよくてすごく強いけど信用できないセシルさん"のままで死にたい。ヒーローとして死ねるならいくらでも命を捧げる。だがカッコ悪いところだけは絶対に見せたくない。

そんなことを思う自分が、あんまりにも変でセシルはまた笑った。笑いすぎてそろそろ看守から拷問によって頭がおかしくなったと思われそうだ。

実際に死を前にしてこれだけ笑顔でいられるのだ、自分は幸せなのだろう……だからこそ悔いが残る。

(彼女も同じくらい笑っていたかな……)

呆れた目。うんざりした顔。どれもとても好きだった。その顔が見たくて何度も変なことをしてしまったものだ。おかげで胡散臭いと言われ続けるハメになってしまった。

「ックク」我慢できず笑い声が漏れる。痛みすら遠くなっていた。意識がなくなるのも遠くない。

この手のことは人一倍経験があるのだとハルカに自慢しとけばよかったな、とセシルは思った。

それから唐突に、死の槍を受け高熱で寝込んだ彼女の髪を指ですいたことを思い出した。

(絶対に絶対にあの役割は誰にも渡したくなかったのに……こき使いやがって……戦争してるんなら回復魔導くらい覚えろよ)

唇を重ねたことも思い出した。人工呼吸みたいなものだ。ハルカは知らないだろう。きっとハルカが知ったら、しばらくは寄せ付けてくれなくて逃げられるだろうな、とセシルはニヤニヤした。

はじめこそ"絆"が一方的なことを嘆いたものの、逆にこの自分が嫉妬に苛まれるほど楽しかった。

(もし仮に生き残ったら、あのことを教えてあげようーーいや)

遠のく意識のなかでセシルは考えた。

おそらく最期だと感じながら。

(もし次に目が覚めて彼女がいたら、キスぐらいーー)

あとに聞こえたのは、血の泡が混ざった荒い呼吸音だけだった。


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