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核を紡ぐ。

このところ木を削っていると、なんだかやたらにうねりのきいた形状のものばかりになっていることに気づく。
最初はなんてことない、ただの正方形をつくっているつもりだったのに。

絵も物も文章も、作品と呼ばれるものはその人から滲み出た結晶なのだとよく感じる。
どんなに考えて考えて捻り出したものも、頭を振ったらぽんっと耳からこぼれ落ちたようなものも、核は同じ。
しかも前者と後者、どちらがより誰かの心を動かすのかはわからない。
時に理不尽だなと思うこともある。
けれどもよくよく考えてみると、その核を育てるところからすでに何かをつくることははじまっていて。
実際に手を動かす前からその核は成長しているのだと思う。
最終的な仕上げ段階で、自分の嗜好によってどう飾られたかの違いに過ぎないのかもしれない。

つまるところ、自分から落ちた結晶はすべて並べておいてもいいのではないかと思う。
できあがったらそれを見る人に委ねる。
こう見てほしいとか、こう感じてほしいなんてことを想定しても大した意味はない。
受け取るのは自分ではない誰かなのだ。

ところがここが難しいところで、つくるものがたくさん売れてほしいものだったり、とにかく多くの人に見てもらいたいものだったりすると、話がすこし違ってくる。
こう見てほしい、こう感じてほしいというポイントに集中して掘り下げて、確実に多くの人が共感する部分を追求しなくてはならない。
核となる部分は残しながらも、誰かの手にフィットするように飾り付けていく。
つくる過程でさらにひと手間を加味することになる。
そのひと手間をつくり出すにも、核を育てていかなければならない。

丸か四角か三角か、そんなふうに思い巡らせていると、結局手の中の形は渦を巻いていく。






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