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嗅ぎ取るは舵取る。

ムンとした甘い香りが鼻をついた。
匂いの出所を探ると、歩道脇の藤棚が白に紫にと咲き揺れている。
棚の下に佇むと、甘い空気でできたかまくらの中にいるような気分になる。

この頃、世界はこんなにも匂いに満ちていたのかと、気づかされることが多くなった。
鼻を覆っていたものがなくなったおかげだろう。
すれ違う人の香水の匂い、焼きたてパンの匂い、鰻の香ばしい匂い、雨が降りそうな匂い、銀行の匂い、横をすり抜けるバイクの排気ガスの臭い。
いい香りとはいえないものもあるけれど、ほんのわずかな、何かすらわからないような匂いが、ところ狭しとひしめき、混じり合う。
きっとずっとそうだった。

何かが生きるところには匂いが生まれる。
人が匂いを遮断している間にも、それは黙々と続いていて。
しばし鼻に沈黙を与えてしまったが故に、解き放たれた嗅覚はあらゆる匂いを感知したがる。

五感忘るるべからず。
鼻をつまめば嫌いなニンジンの味がしなくなるとか、シュッとひと吹きすればたちどころに無臭をつくり出せるとか。
嗅覚はしばしば軽んじられがちだけれど、元来、最も危険を回避するために重要な感覚だったはず。
充満した芳香、臭気に鼻を突っ込んだ瞬間が勝負。
無下に遮断してはならない。

心地よい香りも、耐え難い臭いも、匂い逃せば深い穴に足を滑らせてしまうかもしれないのだから。








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