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映画:『エイリアン2』~エイリアンは「最も美しい生命体」?~

映画『エイリアン』の1か2に、他の生命を厭わず犠牲にして子孫を増やすエイリアンを地球に連れ帰ろうともくろむ科学者が、彼らのことを「自らの生命の存続だけを考える、最も美しい生命体」という表現をしていたのを覚えている。

子どもの私が初めて見たとき「なんてこと言うんだ」と思ったけれど、後に“人には様々な考え方がある”という事実を知るとともに、そう考える人の視点で無感情で生命を考えたときに、「そうい考え方もあるかもしれない。」と思った。“他の犠牲”という概念は無くなれば確かに生存率は高くなるのかもしれない。生存することだけを考えた視点・感覚・選択をして純粋に“生きる”。それを「美しい」と思う感覚。

「生存する」ことを追求するという意味では、生命体としてその純粋さが「美しい」のかもしれない。
しかし、極限まで生存を追求したら他の答えが出るはずだ。
それは、個々がそれを始めたら、互いにつぶし合い、個としても種としても生存率は低くなる。
生存を求めるなら、隣の生命体と調和し平和であることで生命の安全と維持が確保できる。うまくすれば個々の特徴が点となってそれが網目のようにネットワークを作り、互いに自らの生命の存続の可能性を高めることができる。

それは人間にも言えることで、なおかつ人間以外の生物との調和ももちろん必要だ。我々が住んでいる地球には無数の生物が存在し、調和・バランスを取りそこに循環が生じて生きることができている。

ここで葛藤が生じる。

他の生物との調和が必要であるにもかかわらず、私達は他の生物を捕食しなければならない。命を奪って食べなければ生きていけないという物理的な仕組みになっている。

いつも、その地球の残酷さに絶望する。

それでもなお、調和・バランスは必要だ。この葛藤を生きていかなければならないのが、この星に生まれたものの宿命だ。

だから、食べるとき、命を頂いている事実をいつも感じるようにしている。辛くて考えないようにしても、どこかで忘れないようにしている。忘れてしまっては、生命として終わりだと思うからだ。

捕食の構造だけでも絶望的に残酷なのに、人間はそれを忘れて命の「製造」をし、生物をシステム化して拘束し、自由を奪い、物のように扱い、挙句にその肉を捨てている。食べるために自然環境さえ造り変え破壊している。さらに、自らの欲を満たすために他の生命の自由を奪い、人間のためのエンターテインメントとして鞭打ち、走らせ、躍らせ、「展示」し、戦わせたりしている。“他の犠牲”の概念が無いエイリアンと同じだ。

いや、この残酷さは、生きるために必要な「食べる」という自然界での宿命的な残酷さではない。
それとも、人間が残酷であることは「自然」なのだろうか? だとしたら、映画に出てくるエイリアンよりも「美しい」?

真に生存するために必要なのは、隣の生物との調和・バランスだ。
生きるために「食べる」こと以外の、残酷さ、干渉、苦しませることは、必要がない。

では、調和・バランスはどこから生まれるか。
愛、だろう。
使い古された考え方としてではなく、事実として、生存に必要なものだと思う。

愛は、どうやって生まれるか。
それは根源的に、親から子にもたらされるものだろう。ここにも、致命的な物理的事実がある。
子どもを作ることは、肉体的要件を満たしていればできてしまう。精神的な成熟さや、愛を知っているか否かということと、子ができるかどうかはリンクしていない。
肉体と精神を持つ人間が、肉体的要件のみを満たし子を作った場合、生物学的に「親」となっても親の役割、すなわち他者である「子」に愛をもたらす役割を果たせない。それだけの精神面での成長・成熟をしていないまま生んでいるから。だから、生命体としてはおかしな、種の子孫である「子」を苦しめたり、人生を奪ったりすることが起きる。
その「親」も「子」として苦しみ、愛を知らないまま子どもを作れてしまう肉体を持つに至ったのだろう。

しかし、生命体の一番の根源的な特徴は、個体としての可能性、潜在能力にある。
「子」 ではなく「個」としての無限の可能性だ。
愛を貰えなかったとしても、愛を生み出す存在にはなれる。
その方法は、それゆえ、個々に様々だろう。
愛を持つ生命体として、生物を尊重し、ネットワークを作り、助け合い、生存することへの安全と安心を手に入れられるようになったら、世界はもっと穏やかで優しいものになるだろう。
それができる生命体が「美しい」のではないだろうか。

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