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よろこびを感じる心をはぐくむ学校

私は「つながりの学校」という自己理解プログラムを運営するコミュニティに所属していた。
今年の6月から11月の半年。人生で一番濃かった半年。

自分のことが嫌いで、だけど自意識の塊だった私が体験した他者との深くて濃い関わり。その中で変化していったマインド。


仲間を求めて

「何かを成さねばならない」「何者かに成らなければならない」
成果主義、資本主義のこの社会で生きていくためには
私のままではいられない。
羨望、嫉妬、不安、虚無。
無意識に感じていた心の痛み。
「どうにかしなくてはいけない」と強烈に感じていた。
だけどどうすればいいのかわからない。
私は何に悩み、何に苦しんでいるのか。
どうしてこんなにも生きることに必死なのか。
もっと肩の力を抜きたい。
みんなみたいに、楽しく煌びやかに生きていきたい。
そんな幻想を抱き、踊らされていたように思う。

そんなときに知った、自己理解プログラム「つながりの学校」
コーチ兼友人が作ったコミュニティ。
人の顔色が気になって、他人に合わせすぎるきらいがあった。
それに疲れていて、だけど人との関係も大事だった私にとって、
「私が私のままつながれる関係」というのがとても魅力的だった。
やりたいことをして、それを応援し合える仲間のような存在。
それが叶えばどんなに素敵だろう、と参加を決めた。

コミュニティメンバーは、運営側である友人とそのご主人を含め6人。
私を含め、最初はみんな緊張していたと思う。
このコミュニティはどう進行していくのか、ここに集まったメンバーとどんな関係を築くことになるのか。

プログラムはコミュニケーションのためのオンライン勉強会とリアルイベントでワークショップ。
メンバーとはそこでの会話や体験を通して交流を深めていった。

安全な場所

仕事以外のコミュニティに属するのは久しぶりだった。
人と関わるのが苦手な私は当たり障りのない会話でその場凌ぎをすることがあった。
中身のない空っぽでカッコ悪い私を見られたくない。がっかりされたくない、バカにされたくない。
その一心で、踏み込んでこられないように一線を引く。
それ以上わたしの中に入ってこないでという意思表示を、暗に、だけど明確に示す癖が備わっていた。
(迷惑な標準装備だけど、生きる過程で備えてしまったんだろう)

だけど、このコミュニティでは、「一線引く」みたいなもの緩めることができた。
信頼する友人の作ったコミュニティだというのもあったが、集まったメンバーはみんな優しくて、でもどこか生きるのに苦悩しているように感じられた。それをなんとかしたいと頑張っている人たちだと思った。
悩みながら、だけど諦めず進もうとしている姿が自分と重なり、一緒に頑張っていける気がした。
私の弱い部分を晒すのは勇気がいることだけど、きっと大丈夫。
「気負わず、気張らず、無理せず関わっていこう」と思える環境があった。


みんなで鍋を囲んだ語らい合宿

表現したい

コミュニティが始まって2ヶ月目の7月。
友人夫婦がイギリスのシューマッハカレッジという大学へ短期留学へ行った。

帰国後、そこでの学びをシェアしてくれた。
そのときにはまだ頭で理解する程度だったから「ふーん、なるほど。良さそうだな!」くらいにしか思っていなかった。
そのシェアの中で一番印象に残っているのが「みんながアーティスト」という言葉。ひとりひとりが自分の中にあるものを表現していれば、十分なんだ、ということだった気がする。

「アーティストってなんだ。私はそういうのないぞ」と引っかかるものを感じた。
友人曰く、ちょっとした手作りのものや普段の料理だって「表現」になるということだった。だけど私は物作りには興味がなかったし、料理もしない。自分が作ったものは不細工で好きではないし、形あるものはいずれ邪魔になると思っていた。
なのに気になる「アーティスト」。

憧れに近かったかもしれない。
表現したくても、できない。そんな葛藤があった。

昔から、言葉や文章を紡ぐことが好きだった。
だけど、何を書いていてもそれを諌める声がした。
「そんなもの書いて何になるの?大したもの書けないでしょ。誰がこんなもの読むの」と。
だから、書き切れない。途中で手が止まってしまう。
本当は好きなことのはずなのに、世間の評価やどう思われるかが気になって嫌になってしまう。
それがずっと悔しかった。

だから当時の私は「みんながアーティスト」という言葉に希望を見出したのかもしれない。

誰でも、アーティストになれるのかな。私も表現していいのかな。
成果が出なくても、大層なものじゃなくても。ただの自己満足だけでやってみてもいいのかな。
もしそうなら、私もやりたい。
好きなことを、好きなだけ表現したい。
だって、ずっと自分の中に燻っていて、こんなに訴えかけてくる。そして、今ならそれができる気がする。

相談するつもりで、友人に打ち明けてみた。
「書くことが好きで、書いてみたい」
ずっと感じていたもやもやの正体。自分の中に確かにある願い。

言葉にすることに多少の恐怖はあった。
だけど、もう閉じ込めておくことはできないとも思っていた。
「書きたい」という願いは顔を出したくてうずうずしている。
これ以上隠すと、私はもやもやを抱えたままイライラして精神上良くない。

たいせつな世界

か細い声で私のやりたいことを友人に伝えると、あっという間に詩の個展をすることになっていた。これがこの友人のすごいところだと思う。
相手の声をよく聴いて、望んでいるものをキャッチできるようにアンテナを張ってくれている。
演出のアイデアを授けてくれたり、お家を貸してくれたり、いろんなところで宣伝してくれたり、紹介ブログを書いてくれたり、人を呼んでくれたり…
私が足踏みしている間に、こんなにもたくさんの贈り物をくれた。全力で応援してくれる姿に、どれだけ励まされ勇気を与えられたか。
私だけではない。コミュニティメンバー全員に、気を配り続けて、いつも誰かの応援をしていた。

「お家使ってください」とか「紹介記事書いてみました」とか。
最初は「こんなにしてもらって申し訳ない」と思っていたのだけれど。
誰かの応援をしているとき、彼女はいつも楽しそうに笑顔を輝かせている。何かを提供したり、お手伝いしたり。それが義務感や仕事だからとか、やらされている感がない。
本当にやりたくて、心から楽しんでいる。
あるとき彼女が「私は、大切な人たちの大切なものを大切にしたい」と語っていた。
なるほど、としっくりきた。彼女は自分の大切にしたい世界を体現しているのだ。
だからこそ押し付けがましくもなく、自然体で朗らかにやってのける。
申し訳なさから恐縮してしまう私が素直に助けてもらおう、甘えてみようと思えるのはそのせいなんだろう。

友人からプレゼントされた本は私の感性にぴったり

感じる知性ってなに?

この学校での大事なキーワード。
コミュニティに入る前はきっと理解できなかった。
感じることの重要性について、今はものすごく身に染みて感じている。
頭で理解しているつもりでも、実際に体験してみることで「そっか!!!こういうことか!」としっくりくる感覚。
「私、これが好きなんだ…」「こういう些細なことに幸せを感じるんだ」という体感を伴う理解。
腑に落ちる、とか、しっくりくる、とかそういう意味合い。

大袈裟かもしれないが、私は今まで「本当にやりたいこと」が分からなくてもがいていた。

なぜ分からなかったのか。
きっと感性が死んでいた。

海外旅行や国内旅行、ディズニーランドやUSJで遊んで、ハロウィンはみんなでコスプレして、クリスマスや誕生日にレストランディナーを満喫して、SNSで人気のカフェでかわいいスイーツを食べて…
そういう「非日常」なことでしか楽しみを感じられない。
日常に疲れたら現実逃避のため、また「外側の刺激」を求める。

果たしてこれが本当に「私のやりたいこと」なんだろうか。
いつまでも「仮初の楽しみ」を追いかけているよう。
(もちろん旅行もスイーツも遊びも大好き!だけどそれだけでは不十分な気がしていた)

だけど、この半年は、日常の些細なことにも大きな「喜び」や「楽しさ」を感じられるようになった。
月2回のオンライン勉強会では、みんなと一緒に学びを深め関係性を築くことに喜びを感じていた。
ワークショップでは、自分が作り出すものに愛しさや不思議さ、自分を深ぼる楽しさがあった。
友人のお家に集まる人たちと、ありのままの自分でゆったり会話を楽しむ時間が心を満たした。
お金にはならないけど、こうして記事を書いたり、言葉を紡ぐことに没頭する時間が充実していて、「私らしい」と認められるようになった。
ライスワークである仕事でも、同僚と話したり、一緒に何かやり遂げたりすることに楽しさを感じるようになった。

少しずつ、頭ではなく体感を通して「これが好き」「これが楽しい」と、まるで初めて世界に出逢った子供のように心をときめかせながら、懐かしく愛しい世界に再会する喜びを感じる。
「自分を感じる」ことができるようになったから、ちゃんと「好きなこと」や「楽しい」がわかるようになった。


クリスマス&卒業パーティー

どうして自分を感じることができるようになったのか。

昔は、あらゆる自分を否定してきた。
「こんなことを言ったら変に思われるんじゃないか」と社会からはじき出されることに怯えてうまく自分を表現できずにいた。
いつも人の顔色を伺い、息を潜めて自分を空気に紛れ込ませていた。人当たりがいいといえば聞こえはいいが、自分を押し付けて生まれたひずみはいずれ大きな亀裂となる。そうして、誰かとの関係をぶった斬って、誰かや自分を傷つける。
本当はそんなことがしたいんじゃないのに。
こんなことになるのは、きっと私に欠陥があるから。
愛してもらうためには、誰もが認め、羨む人物にならなければいけない。
私が私のままだったら、いつまで経っても世界は私に振り向いてはくれない。

いい加減、限界だった。
息ができなくて苦しい。

私の声を聴いてくれたのが、友人と、つながりの学校の仲間だった。
ありのまま、否定も肯定もなく、ただの私でいる。
それがこんなに穏やかで優しく、心を解放していく。

不器用で、大雑把で、おっちょこちょいで、めんどくさがり。
そんな私を出しても「まぁいいか」と思える。
そうやって許すことができるようになったら、息をするのが楽になった。

深呼吸をして、新鮮な空気を体いっぱいに取り込む。
爽やかな空気に穏やかな気分になる。
空に広がる青が清々しくて嬉しくなる。
大事な人たちと共にする優しい時間に幸せを感じる。
仲間が頑張っている姿に勇気をもらい、応援したくなる。

人も自分も嫌いだった。
誰かと関わることが面倒で億劫。
だけど本当は人といたい。その方法がわからないから、ひとりでも生きていけるとうそぶいて、自分すら騙して強がっていた。

大事な仲間に出逢った今は、私の心に喜びを与え、活力となるのは「人」だと思える。
枯れた心に水を与える。土壌を整えるように感性を耕す。
潤った心と感性の中で日々を過ごすと、何気ない日常がきらきらして見える。

まだまだ私はいろんなものに捉われて思うように動けないことが多々ある。
すぐに自分を見失う。これからも悩んでいじけて道に迷う。
だけど、自分に還れる場所や方法を知っている。
だからきっと大丈夫。

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