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田口ランディさんの「逆さに吊るされた男」を読んで

ほしちかです。すっかり涼しくなりましたね。

休日の今日美容院に行ったあと、本屋さんに行ったら、noteでもご活躍されていらっしゃる田口ランディさんの新刊「逆さに吊るされた男」があって、購入を決めました。

パラパラ書店でめくってみて、難しそうだな、読み切れるかな、と不安に思っていたのですが、家に帰って読みはじめたら、一気読みで、あっという間に最後のページにたどりついていました。

私がランディさんの小説やエッセイと出会ったのは高校生のとき。高校の図書館に「コンセント」「アンテナ」「モザイク」があって、ハードな内容ながら、文章は澄んだ水のようにごくごく身体に染みていく感じで、すぐに夢中になり、その後大学生から社会人にかけて、たくさん出たご著書の、おそらく7~8割くらいは読破しました。

そうそう、私が占い好きになったのも、ランディさんが著書の中で、占い師に観ていただいたことが面白く書かれていて、興味を持ったのでした。

文章がすうっと身体に入ってきて、まったくかっこつけてるところがなくて、照れ屋だけど優しい心根が伝わって来る、冷静なのに熱い作家さん。文章の透明な色合いは、ずっと私の憧れです。

そんなランディさんの新刊「逆さに吊るされた男」は、オウム真理教が起こした日本史上最悪のテロ、地下鉄サリン事件の実行犯、林康男死刑囚との、14年間にわたるランディさんの交流を描いた私小説です。

実際、オウム真理教の死刑囚と聞いて、良いイメージを持つ人はまれでしょう。極悪人の殺人犯と、一体どんな話をするんだ、と、ドキドキしながら読みはじめました。

でも、ランディさんの目に映る林さん(作中ではYと表記)は、人に気を遣うことができる、心優しく、自己犠牲的なところもうかがえる、良い人だった――というあたりから、物語に引き込まれていくのを感じました。

私は、大学生のころ、やはりオウム事件を扱った、映画監督森達也さんの著書「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」を読んで、感動しました。

そこに書いてあった「他者への想像力を失うとき、人はいくらでも残虐になる。オウム信者であっても、一人の人間。レッテルを貼る前に一歩立ち止まって考えないか(手もとに本がなく、うろ覚えなので曖昧な記述であることをお許しください)」というようなメッセージを、読書の感想として、大学のサークルの先輩に伝えたところ「それでもオウムのやったことは許しがたい犯罪だ」と憤って返され、自分が本の中身を上手く伝えられなかったな、という記憶をいまだに覚えています。

でも、このとき、自分がなぜ「上手く伝えられなかった。じゃあどう伝えればよかったのか?」という問いがあったのですが、今回のランディさんの著書を読んで、少しは上手く言えるような気がしました。

オウム真理教、という組織を考えるとき、私たちは「理解不能な集団」「こわい宗教」として、ぱっとイメージします。実際彼らは、麻原の指示によりり、地下鉄にサリンをまいてたくさんの犠牲者を出した、恐ろしく残虐な集団です。

しかし、集団のトップの指示により、部下にあたる人、その末端にいる人が動いて、何かをやらかす、ということは、どんな組織でも起こりうることです。私たちは、得体のしれない宗教は怖い怖いというけれど、では、ブラック企業は「宗教的」でないといえるでしょうか、第二次世界大戦のときの日本軍は「宗教的」でなかったといえるでしょうか。

自分が、新興宗教でなくとも、なんらかの組織やコミュニティの中にいるとき、そのトップや幹部がもし暴走したとしたら、自分はそれに従わないでいることができるのでしょうか。

というように、常に自分の問題に引き付けて物事を見ることの練習を、この本をさせられているような気がしました。

もう一つ、この本を読む中で私が印象深かったことは、みんな自分の妄想やファンタジーの中に生きている、ということでした。私たちは宗教や、また政治団体にのめりこむ人を、嗤うことがあります。

「あんな変な格好をして、おかしなことを祈って、きっと頭のへんな人だよ」とか「街中で、うるさい選挙カーを乗り回して、誰もあんな政党、支持しやしないよ」とか。

彼らは、自分たちの妄想やファンタジーの中に生きているので、良識的な私たちは、関わりたくない、と腰が引けたりします。

でも、実際問題、自分に引き付けてみてみると、では自分自身はなんらかの妄想やファンタジーを生きていないと、言えるのか。

「週五日八時間以上働かなくてはいけない」「パワハラを受けても、この会社に居続けないと、社会に自分の居場所はない」「自分は生まれつき誰からも愛されない不幸な人間だ」「自分は頭が悪い」「自分には夢を叶えることなどとうていできっこない」

――私たちが、誰しもこのような例は、考えたことがあるのではないでしょうか。

そして、それは、自分だけが思いこんでいる妄想やファンタジーだと、言えるのではないでしょうか?

言葉を使うのが上手い人ほど、言葉に呪われやすい傾向にある、と何等かの本で読んだことがあるような気がします(もしかしたらこれもランディさんの本だったかも。えへへ)

私たちは、言葉によって、思考し、自分の方向性や考えを規定しますが、忘れてはいけないことは、その規定した言葉の外にも、別の現実があるということです。

枡野浩一さんの短歌にこういうのがあります。

正しさの中にいるからあなたにはここから先は理解できない

この短歌など、上記のことを、上手く言い表しているのではないでしょうか。

人の数だけ、その人なりの正しさがあります。その人なりの物語が、妄想があります。

大事なのは、自分の物語と人の物語が違っていたら、そこで立ち止まって考えられることではないでしょうか。

言葉で、人は簡単に他人を、自分自身を呪えます。でも、また言葉によって、その呪いを解除できたり、また新しい、今度は希望となる呪いを、かけなおせたりするのです。それが、言葉を持った人間にできる、素敵なことかもしれません。

「週三日、好きな仕事で働いて、残りの二日はバイトをして、あとの二日休む」「パワハラするような会社から抜け出しても、きっと自分を雇ってくれる次が見つかる」「誰にも愛されず16年生きてきたけど、きっと幸せになる」「自分は賢くないけど、その分伸びしろはある」「夢を叶えるのは、すぐには無理かもだけど、時間をかけてゆっくりたどりつきたい場所を目指す」

言葉の呪いは、書き換えられる。自分の物語も、何度だって修正できる。そのためには、自分の持っている「妄想」を自覚して、その外側から、ものを見る視点を持たなければならない。世界は――広い。人の数だけ、現実がある。

このようなことを、この本を読んで思いました。

また、タロットカードから採られた「逆さに吊るされた男」というタイトルは、この本に合い過ぎるほど合っている、と思いました。

ランディさん、考えさせられる、名著を書いてくださって、ありがとうございます。何度も、読み返したいです。

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