見出し画像

【エッセイ】祖父と東京大空襲

映画「この世界の片隅に」を先日夫と見てきたのだけど、戦時中の話なので、思わず祖父母の生きてきた時代を重ねて鑑賞してしまった。祖母は結構ちゃきちゃきとしたところもあるので、映画の主人公のおっとりしたすずとは性格は違うけれど、映画に映された昭和の時代、戦争の時代の匂いをかいで、若い頃の祖母を思った。

「この世界の片隅に」は夫と見たいねと封切られた頃から言っていたのだけど、石川に上映館がなかったので、富山まで足をのばして見に行った。老若男女問わず、いろいろな人が見にきていた。映画が終わりに近づく頃には、あちこちですすり泣きが聞こえていた。私も少しだけ泣いた。ネタバレをしたくないので感想は書かないが、すごく良い作品だと感じた。映画館で見られて本当に良かったと思う。ぜひ、たくさんの人に見ていただきたい。

この映画を見たことで、三年前に亡くなった祖父(母方)から、東京大空襲のときの話を、亡くなる数か月前に聞き書きしていたことを思い出した。以下、今日のノートにその内容をシェアしたいと思う。

(つらい話もあるので、そういった話が苦手な人は読まないでください)


***********************************

これから戦争の思い出を話す。当時の日本では二十歳で軍隊の徴兵検査があった。合格すると、戦争がなくても軍隊に入らないといけなかった。私が若者のころは、それが一年早まって、十九歳で軍隊に入らねばならないことになった。 

十九歳の当時は、兄貴が東京の土建会社にいるつてで、自分も連れて行ってくれと頼んで東京にいたのだが、輪島で徴兵検査が行われることとなり、一時帰省することになった。結果は乙種合格で、軍隊に入ることが決まった。

昭和十九年の九月一日に、東京月島の高射砲第十四連隊に入隊した。小学校が連隊本部となった。入隊して一カ月ほどは高射砲の照準を合わせたり、練習と実戦を行った。

そのころ、まだ東京まで空襲が来ていなかった。一か月が過ぎると連隊本部の書類係に回されることになる。

十一月に初めてアメリカの攻撃が日本に来て、それからは毎晩来るようになった。

昭和二十年の三月十日に、東京じゅうたん爆撃という攻撃をされた。ソロモン軍島の飛行場が奪われて、アメリカの空軍が入ってきて、それから毎晩攻撃が行われた。

三月十日は、夜更けの十二時ごろから敵軍の飛行機がぞくぞくとやってきた。相手は富士山をレーダーにあててやってくるのだ。

焼夷弾という、落ちたとたんに火の玉になる爆弾を、月島の向こう側にバタバタと落としていく。

大変なことになったから見てこいと言われ、屋上にのぼって見に行くと、輪島の町ぐらいのところが全部燃えていた。

連隊本部には落ちなかったが、この空襲で二十万人が死んだ。

朝になってみると、隅田川の河原に死体が浮いていた。「かわいそげなことになった」と思った。

三日立つと、死体を山積みにして、燃やすのだが、ひと山五十人くらいにガソリンをぶっかけて燃やすのだ。燃やすときの匂いがひどい匂いだった。野ざらしで焼くから、匂いがどんなにたってもとれないのだ。

日本は負けたと思ったが、そんなことを言うことはできない。日本の軍隊本部は、最後の一人になっても諍いをすると言っているのだ。

五月頃から昼間の爆撃が行われるようになった。鳳至小学校くらいの学校が、二、三発の爆弾でふっとぶのだ。

東京だけではなくて、アメリカが往復できるようになったらいつでもじゅうたん爆撃が行われるようになった。県庁所在地はほとんど爆撃にあった。金沢と京都は文化財が多いのでやられなかったそうだ。

軍隊の戻りしなに富山に寄ったが、爆撃でほとんど家らしい家は残っていなかった。311の津波でやられた家と一緒で、がれきの山だった。以上で、話は終わり。


********************************

祖父は昔ばなしがとても上手く、元気なうちにもっと聞き書きをしておけばよかったと、ずっと思っている。この話をしてくれたのは2013年の9月で、その同じ年の12月25日に祖父は亡くなった。戦争のことを知っている世代が、いまどんどん亡くなっていかれる。まだその世代のご家族が生きていらっしゃるという方は、ぜひ聞き書きをしてみてはいかがだろうか。

いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。