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「ぼくたちの哲学教室」


ムスメがニュージーランドで通っていた小中一貫校では、低学年から「子どものための哲学」の授業があった。

例えば、7歳の頃は「親が好まない友達と仲良くすることについて」子ども達は議論をしていた。
ムスメのノートを見ると「学校の外で遊ぶのは親がコーディネートするから、親が好まない友達と遊ぶのは無理。でも、学校では遊べる」と自分の意見を書いてあった。ムスメの意外とドライな一面を知って、ふふふと笑ってしまった。

8歳の頃は「美しいってどういうこと?」について話し合った結果、美の基準が各自の文化や価値観のバックボーンで大きく違うことを知る→「人の見た目を自分の価値観でジャッジしてオープンにするのはナンセンス」という結論に至ったと教えてくれた。(ムスメは17歳の今でも、人の見た目にはいっさい言及しない。とても立派なことだと思う。)

13歳にもなると「陪審員制度で12人中何人が有罪だと判断したら、有罪になるのにじゅうぶんか?」という、かなり社会的な問題について議論していた。
ちょうど新型コロナ対策のロックダウン中の課題だったので、私からも「十二人の怒れる男」の話をして、多数決とは決して少数意見を蔑ろにすることではないのだという話をした。昔テレビで見た深夜映画が役に立った。ありがとう。

そんなムスメと2023年の夏休みに、市内の小さな映画館で「ぼくたちの哲学教室」を観た。

私は字幕をチラチラ見ながら。
ムスメは字幕必要なし。
さすが世界最速のニュージーランド英語育ち。
訛りもノープロブレムだったらしい。
ニュージーランド英語もかなりクセがあるので
慣れているのだろうか。

映画のあとでムスメに確認したところ、ムスメの学校で行われていた哲学の授業も、この学校とだいたい同じメソッドで進められていたらしい。
先生達の生徒への向き合い方もムスメの通った学校とよく似ていた。どちらの学校も対話を重要視しているし、もやもやした感情を言語化して伝えることを子ども達に薦めているし、サポートもしている。
言語化して他者に伝える過程で、自己と向き合い、感情を整理させるやり方なのだと思う。怒りをコントロールする方法についてもテクニックとして教える。精神論ではない。

中盤で舞台となった小学校のある地区の抱える問題の深刻さを物語るエピソードのひとつとして、薬物中毒が原因で亡くなったと思われる卒業生の話が出てきた。まだまだ若い子だった。
その時に電線に結び付けられた靴の映像が挟み込まれていたのだけれど、ニュージーランドにいる時に「あれは昔、ドラッグの売人からの「此処で買えます」の暗号だった」と聞いたのを思い出した。
さすがに今は違うらしいが、現代でも電線に結びつけられた靴は薬物売買の象徴なのだろう。

映画の中で「人生は厳しい」と言ったのは先生(大人)ではなく生徒(子ども)だった。
子ども達だって小学生になればそれくらい気づいてしまう。彼らは大人をよく見ているし、大人の世界と子どもの世界は地続きだ。

そもそも人生は大人になってから始まるわけではないし、そこでは正解のない問題が次々と起こるのだから、大人も子どもも、考えて、考えて、生きるしかない。

それゆえに、はるか昔に哲学というものが生まれて、今も必要とされているのではないだろうか。
きっと未来でも哲学は必要とされているに違いない。(むしろ、じっくり考え抜くことを必要とされない未来の方が、うすら寒い。)

本当は、大人が率先して変わることで社会がより安全で安心できる方向に変わっていけば何よりなのだけど、大人になると人は変化を受け入れられなくなることが多いし、社会全体が変わるには時間がかかる。大人に残された時間だけでは足りない。

だからこそ、子ども達への教育は社会の希望なのだと思う。でも、大人が教育と管理を履き違えてしまうと、社会を変えられる若い力は育たないだろうなとも思う。管理は思考を奪いがちだから。

この映画は子どもに見せるのにとても良い映画だけれど、大人にも(にこそ?)見て欲しい。


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