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【小説・レビュー】吉行淳之介『暗室』と『菓子祭』―吉行淳之介について少し―

最近,吉行淳之介の小説を読む機会が増えたので,少し思うことを書いておく.

私はすぐ忘れてしまうので.



吉行淳之介は『暗室』から入ったのだが,この作品は非常に良かったと思う.
賛否両論あるようだが,私は好きだった.


『暗室』は,「こういう話で,こういう結末だ.」と言えるような作品ではなく,
まさに”暗室”にいるようで,暗い部屋の中に迷い込んで,出口が見つからないまま暗室の中に漂う…
そんな作品のように思う.


つまり,オチはない.吉行淳之介自身,自分との向き合いの中で答えが出ないまま区切りが良いので終わらせたのだと思う.
そもそも,自分という人間に結論を出すことは誰しもできないので,当たり前である.




官能の世界…官能小説なんてぬかす人もいるみたいだけども,笑わせないで欲しい.
性に関する描写もそりゃ多々あるが,吉行淳之介はそこに中心を置いてはいない.



あくまでも人対人の相互関係に焦点が当てられている.
他人とは何か.人とは何か.性とは何か.
そこである.吉行淳之介の場合は,他者を考えるときにそこに”女性”を置くだけのことだ.





暗室の中で面白いなと思ったのは,彼のレズビアン,同性愛に対する鋭い考察である.

女性同士の同性愛において,ほとんどの場合,男役<タチ>と女役<ネコ>という男と女の疑似的な役割区分を置くことに彼は言及し,嫌悪感を覚えると言うのである.



確かに,なぜ男役と女役に分かれなけれないけないのだろうか?
異性愛に対して引け目を感じていないのであれば…そのような役割分担をしなくてよいのではないか?

いや,もっと違う言い方をすれば,

”正しい恋愛のカタチ”が異性愛であるとおもっているからこそ,そのような同性愛といいつつ,そこに男役と女役を設けるという行為に至るのではないか?

ということである.

恋愛は男女がするものという一般的言説を逆に認めてしまっていると思うのだ.



翻って,現代のLGBTの問題について考えてみても,
レズビアンのカップルというと,なぜか男性っぽい女の人と女の人らしい女の人がカップルだったりするのである.
吉行淳之介が考察するように,昔も今も変わらぬままだ.



オチはないと言ったが…本当に明確なオチはないのだが,
最後の方からは,吉行淳之介が夏枝という一人の女性に心を開きかけるという変化が見られるようになる.
ここでも,やはり他者とは何か,自分とは如何なる人間なのか,を夏枝との対人関係のうちに見出そうともがく吉行淳之介自身の葛藤があるように思う.



だから,この作品は総じて面白く感じる.
ただの官能小説だと思ったら大間違いだ.




・・・・・



暗室が思いの外面白かったので,他の単行本も買ってみた.



短編がたくさん入っている.

ワクワクしながら読んだら,拍子抜けした.


………吉行淳之介の短編はあまり面白くない!!!……..



『暗室』のように,話が進む中ですこしずつ深い内容に入っていく,ちょっとした時間や環境の変化の中に気づきを見出す…といった,吉行淳之介は文を重ねて味が出る作者だと思うのだが,これを短編では発揮できない.



短編だと,短い文でまとめようとすると,吉行淳之介の作品は露骨に印象付けられてしまう.
というか,言ってしまえば,下手くそになってしまう.




『菓子祭』という作品も,少し奇異な父と娘の微妙な関係,レストランのボーイの心情とボーイに対する娘の反応,その両者の対応にもやもやする父のすこし奇妙なやり取りが面白さとして書かれているのだろうが,
如何せん,文量が限られているのでその味わい深さがでてこない.薄っぺらく感じられてしまう.


菓子祭の中の『あいびき』という作品は,まあひどい.
かなり展開が陳腐である.もはや吉行淳之介はギャグで書いたのかもしれないと思うほどである.
いや,ギャグであってほしい.
これはただの官能小説と言われても仕方がないと思うほど,チープな内容だったと思う.



他の短編もよく読まないと何とも言えないが,吉行淳之介は長編小説向けの小説家だと思う.
文才であることは間違いないが,個人的な感想だが,短編には向かない.




谷崎淳之介とはまた違ったタイプの小説家であるように思う.
谷崎淳之介はより異性としての”女性”という性に目を向けるが,吉行淳之介は女性を対象としながらも,目を向けるのはあくまでも”他者”である.
その点で,谷崎潤一郎とは異にしている.と個人的には思う.






でも,いずれにせよ,吉行淳之介は人間味があり,個人的にとても好きな小説家である.

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