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メキシコでチワワを救助した話

ある日曜日、特にすることもなく家にばかりいて鬱屈としてしまった僕は、コロナの緊急事態で遠くに外出するのも憚られることだし、近所のバーガーチェーンまで歩いてみることにした。

特におなかがすいていたわけではなかったので、バーガーチェーンではヨーグルトとホットコーヒーを注文することにした。店員の女の子はちょっと妙な目をしたがすぐに無料のスマイルを送ってくれた。席についてヨーグルトを食べ、村上春樹の『UFOが釧路に降りる』という短編を読んだ。読み終えてコーヒーをすすっていると近くの席の若い女の子二人組の話し声が耳に入ってきた。全部聞こえたわけではなかったが、「メキシコ」がどうのこうのと言っているのが分かった。それを聞いて僕はかつてメキシコでチワワを助けたことがあったのを思い出した。

それは2018年の夏のことだ。当時僕にはメキシコ人の彼女がいて、超遠距離恋愛をしていた。普段はスカイプでコミュニケーションをとっていたのだが、年に一回くらいはどちらかが直接会いに行くような感じになっていた。経済的な問題もあったから、僕の方がメキシコに行くことが多かったけど、彼女が日本に来たこともあった。その夏は僕がメキシコに行った。

彼女は両親と弟と一緒に住んでいて、メキシコシティの都心から家族で郊外に引っ越したところだった。僕はその郊外の家に迎えられ、一か月弱の間彼女の家族と生活を共にした。そのころ彼女は大学を卒業できていなかったが大手の新聞社でカメラマンとして働きはじめていた(メキシコではあまり珍しくない)。僕の方は資本主義に対して異常な反感を抱いていたころで、地元の田舎で半自給自足的な生活を成り立たせようと孤軍奮闘していた。周囲と調和できず、家族とのトラブルもあって地元での生活に疲れを感じ出してもいた。

メキシコの家族は温かく僕を迎えてくれた。郊外の家はまだ未完成で建設途中ではあったが、キッチン、シャワー、家族全員分の寝室は確保され、生活できるようになっていた。僕は彼女の部屋(仮)で寝起きすることとなった。家の壁を塗り直したり、郊外なので庭もあったので草刈りをしたり、ゴミを投げ入れられないように周囲にフェンスを作るなど、やることはたくさんあった。人に頼むと高くつくので、メキシコではこういう作業をDIYですませることが多い。

彼女の家ではチワワを2匹飼っていた。ちなみにチワワというのはメキシコのチワワ地方原産の犬種である。名前はパンチョとネネ、それぞれオスとメスのチワワであった。2匹ともまだ成犬ではなく、パンチョは思春期で気が荒れていた。これから去勢するとのことだった。

僕は彼女の家で特に何不自由のない生活を送ることが出来た。彼女が仕事に行ってしまうと昼間は暇だったけれど、食事はお母さんの作るとびきり美味しいメキシコ料理が食べられたし、退屈したら庭の草刈りをしたり、バスで半時間ほどのシティに出て、夕方彼女が仕事を終えて出てくるまでぶらぶら散歩したりして気ままに過ごすことが出来た。

そしてある日地震が起こった。マグニチュード8.9くらいのかなり大きな地震だった。僕はその時地下鉄に乗っていて、車両が変な揺れ方をして扉を誰かがバンバンと叩く音がしたのではじめは悪党の一団に電車が襲撃されたのかと思った。メキシコではそういうことが起きても不思議ではない。事の次第に気づいたのは地下鉄を降りて地上に出て、バスターミナル近くの屋台でお昼を食べていた時だった。何か様子が変だなあ、と思ったら屋台の隅に据え付けられていた小さなテレビがメキシコシティで大地震があったことを告げていた。彼女と連絡が取れなかったので彼女の勤める新聞社に向かったのだが、地震で地割れがしていたりガラスが割れて落ちてきたりする危険があったため会社に近づくことは出来なかった。

仕方なく一度郊外の彼女の家に帰ることにして、バス停でバスを待っていると彼女のお母さんから電話があった。心配していたので無事だと告げ、彼女や他の家族も無事だということが分かったのでひと安心して帰ることが出来た。新聞社にとっては稼ぎ時になってしまったので、それから彼女は忙しくなり一緒に出掛ける予定もキャンセルになってしまった。特に僕にはできることはなく、仕事を休んで家にいるお父さんとテレビで地震のニュースを見ているしかなかった。そのうち安倍首相が送り込んだ日本の国際救助隊が到着して救助活動を始めた。気のせいかメキシコのメディアは日本の救助隊の活躍ばかりを報道していたように思う。実際最新鋭の機器を駆使して救助活動で活躍していたのだろうが、メキシコの人々が親日的なせいもあるだろう。僕も一度お父さんからの情報提供を得て赤十字ボランティアの通訳を買って出たことがあった。電話をしたらすぐに返事が来て、さっそく通訳することになった。被災した日系人コミュニティを訪問するので来てほしい、とのことだった。家にばかりいて手をこまねいているのにも飽き飽きしていた僕は、意気揚々と都心に向かったわけで、集合場所まで送ってくれたタクシーの運転手にもチップをはずみ、さあ、やるぞと意気込んでいたわけだが、結局のところ何もすることはなかった。世界各国からこれまた意気揚々と集まったボランティアの面々と、何だかやたら情熱的な赤十字の引率のアメリカ人に急き立てられてミニバスに乗り込んだ僕は、アメリカ人が何度も「我々には日本人の通訳がいる!」と叫ぶものだから、大変な役目を買って出てしまったとバスの座席で縮こまっていたわけだが、何故か途中で予定変更になったらしくバスは日系人のコミュニティには向かわず、かつて留学していたころに何度か訪れたことのある日墨会館に到着して特にやることはないと言われ、赤十字のアメリカ人と有志の何人かは別な現場に向かい、手持無沙汰になった僕は今後なにか要請が来るかもしれないから「ここに残るんだ!」と、熱意溢れるアメリカ人に肩をバシッとたたかれてしまったので日墨会館の前に何人かのボランティアと置き去りにされてしまった。そのうちにボランティアの別のアメリカ人が飲みに行こうぜと言い出したので、僕はさすがに酒を飲む気にはなれず皆と別れて帰ってきたのだった。

彼女は取材で悲惨な被災現場も見に行かねばならなかったらしく、ややヒステリー気味にもなっていたりして、ちょっとしたトラブルはあったものの、お父さんやお母さん、お姉さんや弟君ら他の家族は落ち着いていて郊外の家は穏やかであった。僕はお父さんに彼女の部屋でオナニーしているところを見られたりして、それが彼女の家族の間でひそかに噂になって恥ずかしい思いをしたりしていたのだが、そんなある日いよいよ僕が活躍するときが来た。いつもうるさいパンチョがいつにもましてうるさく鳴いていて、ネネの悲鳴のような声も聞こえるので、何事かと庭に出てみると、盛りのついたパンチョが若気の至りで過ちを犯していた。一物をネネに突き立てたのはよかったがどちらもまだ事をいたすには未熟すぎたのか、パンチョの一物はネネにささったまま抜けなくなってしまったのだ。あのときのパンチョの表情は忘れられない。半ばパニックに陥っていて、犬ながらにやべえ、どうしよう、抜けねえよ、しかもニンゲンに見られちまったよおお、というような顔をしているのである。レイプまがいのことをされ、しかも失敗されたネネにしてみればたまったものではないが僕はなんだか可笑しくて笑ってしまった。すぐにお母さんと弟君がやって来て、二匹を引き離そうとするのだが、粘液も何も出ておらず、ただ突き刺さっているだけのためになかなかに抜けない。無理に抜けば、ネネがケガしてしまうだろう。名探偵おかわりの灰色の脳細胞はそんな時でも冷静に働いていた。油を塗ったらどうかと思ったのだがもっと適当なものを僕は持っているような気がした。ああ、と思いついて僕は部屋に戻り、それをもって庭に出た。庭の水道で少しそれを濡らすと、お母さんと弟君に捧げられたパンチョの一物にそれを塗りつけた。そう、それは石鹸だった。するとさすが名探偵おかわりの計算通り、パンチョの一物はするするとネネの急所から抜けたではないか。それからパンチョは散々お母さんに怒られ去勢の日が早まったのは言うまでもない。そして僕は日本の救助隊のような英雄として一躍株を上げたのであった。

地震やら彼女との喧嘩やらでいろいろと大変な事も多かったあの夏のメキシコ滞在だったけど、それよりもなによりもこのチワワの騒動が鮮やかな記憶としてよみがえり、今でも失笑を禁じ得ない。その後彼女とはうまくいかずに別れてしまったが、コロナ禍やらなにやらで大変なこの2021年の夏、彼女の一家とあの二匹のチワワたちはどうしているのだろうかと時折考える。

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