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一級建築士製図試験を現場に出て3ヶ月の新人が突破した体験談

学科試験終了後、東北支店の同期、私を含めて4人は各々の現場に配属された。仙台に2人、山形に1人、私はその中でも最北端の岩手県に配属となった。

私が製図試験に合格できた理由は明白だ。現場の所長が「製図板を事務所に持ってきて、勤務時間中も勉強してていいよ。現場にも出ないでいいから、今は製図試験に1番集中して」という方針で、桁違いの勉強時間が確保できたからだ。

日建学院盛岡校

所長のお陰で勉強時間の確保はできたものの、一緒に勉強する仲間がいない暗黒期に突入。日建学院盛岡校は事務の方がよく生徒を見てくれており、アットホームだと感じた。しかし、先生は私が大嫌いなタイプだった。自分の考えている当たり前を生徒ができていないと、教えるのではなく、指導するような先生だった。なんでわからないの?という態度で授業をするもんだから、耐えられなくなった私は一回だけ授業終わりに、「先生は経験があるから当たり前だと思っていらっしゃいますけど、私たちは全然そのレベルじゃないので、丁寧に教えて頂けますか?」と喧嘩を売りにいったことがある。

また、学科までずっと映像授業を受けていた弊害か、生徒から先生に何か聞く、ということも極端に少ないように感じた。私ばっかり「先生!」と呼んで質問していたから、先生にとっては手のかかる生徒が1人居なくなって嬉しい限りだろう。

社内模試

学科に合格した社員は計5回の社内模試を受けることができた。学科と違い、製図に関しては日建学院と提携していたようで、指定の日建学院の校舎で受ければ、その日は業務時間として扱っていいよ、とのことだった。

しかし東北地域で指定されていたのは、仙台校のみ。私は高速道路を使っても仙台校までは片道2時間以上かかるところに住んでいた。往復に4時間もかかるのなら、その時間を勉強に費やした方が断然いいわ、と判断し、結局対面で模試を受けることは一回もなかった。事前に、校舎に来て模試が受けられない人は通信添削を受けることができる、と聞いていた。そのため、日建学院仙台校の弊社担当者に通信添削を受けたい旨を伝えていたのだったが、1回目の模試が仙台校で実施されてからも、担当者からはなんの音沙汰もなかった。メールもフル無視されていた。私だけでなく、東北支店のスタッフが電話をかけて、やっと「私は通信添削の担当でないので、分かりかねます」というにべもない返事しかもらえなかった。

社内模試の2回目が近づいいたころ、やっと日建学院の本社の方からメールが送られて、通信添削の仕組み、受けるために何をしなければいけないのかを知ることができた。しかし、もう時期的に1回目は受けることが出来ず、2回目の提出期限もメールを受け取った2日後だった。なぜ日建学院内でこんなにも連携が取れていないのかと、私は責める内容のメールを大人気なく日建の担当者に送ってしまった。

社会人にもなって、他人を責めるメールを送ったことに少しばかり恥ずかしさを覚えた。だか、驚いたことに、弊社の担当者からもっと過激な援護射撃を受けたのだ。要約すると、「私はホルンさんが学科の時から本当に頑張っている姿を見ている。製図に受かる意気込みもある。そんな我が社の社員に対して蔑ろな態度を取るなら、来年は総合資格に製図の講義を頼むからな」といってくれたのだ。

自分の頑張り、能力を信じてくれている人が社内にいることへ感激した。こんなに信じて期待してくれている人のためにも絶対に合格する、私が本当の意味で本気になったのはこの時だった。

同期の自殺

今も自分の中で消化しきれていないため、詳しく書くことはしないが、東北支店に配属された同期の1人が9月の終わりに亡くなった。原因は一概に試験へのプレッシャーではないだろうが、本人から製図の悩みについて聞いていた私からすると、少なからず製図試験にも原因はあると思ってしまう。

製図試験のおおよそ1週間前に火葬が行われ、その時期は私も含めて、同期みんなが精神的に参っていた。色々あって、私は彼に対して自分ができることは全部できた、と思えていた。他の同期は数日寝込んでしまったことを後から聞いて、私は冷酷なのかな、と思うこともあった。「同期が死んでも製図合格できたら、私って超冷酷じゃん」「いや、私は私がやるべきことをするだけ」とかその時期はずっと亡くなった同期が頭から離れなかった。また、製図の勉強をしたことがある人なら理解してもらえると思うが、エスキスをしている時は頭がフル回転しているが、図面を描く段階になると作業中心となり、頭をほとんど使わない。その時に手を動かしながらも頭の中はいつも同期のことで一杯一杯だった。

本番

製図板を背負って東京に行くのは流石に馬鹿馬鹿しいと感じたため、製図試験は受験会場を岩手に変更した。岩手県は東京都より何倍も面積が大きいのに、受験会場は岩手大学の一ヶ所しかなかった。私が住んでいる山奥から車で1時間かかるため、体力温存のためにも前泊をすることにした。

実は実験日の前日、母も盛岡に駆けつけた。同期の件を知った母は私の精神状態を心底心配し、顔だけでも見たい…!と言っていたため、前泊するホテルで合流した。受験日の朝、事前に日建学院盛岡校から受験会場へのマイクロバスの乗車を予約していたため、母と一緒に盛岡校まで車で向かい、私はマイクロバスに乗り換えた。私は現場がリースしている車を貸してもらっており、母は運転できなかったため、試験が終わるまで周辺のイオンモールで待ってもらうことになった。

余談だが、私は重要な試験や発表会の時は父と母に頼んでタイミングを合わせてパワーを出してもらっている。2人に私がいる方向に向かってカメカメハーをしてもらうように事前にお願いしているのだ。これによって、緊張している時も両親を感じることができるように思えるからだ。実はこれを始めてから百発百中で合格できている。まあ、いわば私の心の拠り所なのである。

受験会場である岩手大学の環境は、控えめに言っても悪いものだった。小学生ぶりに見るような机を1人につき2つ使うことができるのだが、これがまたとんでもなくガタガタなのだ。会場に入って即座に養生テープで二つの机の脚を繋げ、持参の段ボール切れ端を短い脚の下に押し込んだりしている人たちがいた。日建学院からは会場環境について何も言われていなかったため、総合資格に通っていた人たちなのだろう。急に心細くなって、仙台の試験会場にいる同期にLINEを送った。「それをやってるのは絶対に3年目の切羽詰まった人たちだから気にしなくていいよ」と慰めてもらった。また、私の先は窓際の1番後ろで、新型コロナ対策のためか、最初教室に入った時は窓が一部分開けられていてとんでもなく寒かった。しかし、これらを差し置いて、1番最悪だったのは、教室が2階だったのに、女子トイレが1階にしかなかったことだ。しかも私は出入り口から席が遠く、廊下に出るには他の受験生に椅子を引いて、通してもらう必要があった。

やっと試験が終わった時、外は既に真っ暗になっていた。杭基礎を練習したことのない私は、20mの軟弱地盤の上にどうやって7階の事務所ビルを乗せたらいいのか検討もつかなかった。頭をフル回転させて思いついたのが、「そうだ!地盤改良杭にしよう!」私の赴任先の現場が6階建てで地盤改良杭を使っており、図面を見たことがあったからだ。しかし、後からネットで調べると、地盤改良杭は回転オーガーの長さ12〜13mくらいまでしか作ることができない、と書いてあった。20mの地盤改良杭を書いていた私は、こりゃオワタと思っていた。同期に一連のことを説明し、渾身の駄洒落をかました。「一片の悔いなし、杭だけにね」何を隠そう、大学時代私は駄洒落サークルにいたのだ。

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