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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#炭鉱

劇場のスクリーンで「空の大怪獣ラドン」の中の、昭和30年頃の坑道内と炭鉱街の「天然色のリアル」に触れた

かつて県内のいたる所に存在した炭鉱と炭鉱街。 それはどんなことをしても、当時を再び見ることはできません。 数枚残されているかどうかというモノクロの写真だけが手がかりで、それすら無いところばかりです。 今、かつて炭鉱があった場所に立ってみても、「本当にここにそんな場所があったとは、到底信じられない」ような所ばかりで、果たしてそれが正しいのかどうかすら疑問になります。 しかし、ほぼ唯一。昭和30年頃の炭鉱街を当時のカラーのまま、見ることができるのが、表題にある東宝映画「空の大

池島アパートの一室を見せてもらう

軍艦島ガイドをしていた時、お客さんの中で「少しでいいから、アパートの中を見てみたい」と言われる方がけっこうおられました。 それはただの好奇心からくる、と言うよりは「自分自身が幼い頃生きていた時代を思い出したい」というようなものではなかったかと思います。私自身が初めて軍艦島に来た時も同じような感覚を持ちましたので・・・ 都会からツアーに訪れる多くの方が「あの頃は・・・」と懐かしそうに昔を語られます。その時代を思い出すとにより自分自身の「アイデンティティーを再確認する」というこ

映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛之鼻炭鉱の風景③

こういうキャプチャーはいかがなものことは思いますが、「にあんちゃん」はVHSも廃盤になっているようですし、DVDとして復刻するかどうかも現時点ではわかりません。 昭和44年に閉山してから、(2011年当時で)早や44年。鯛之鼻で働いていた、或いは暮らしていたという方もだいぶ年齢が上がってきていると思われますので、少しでも見ていただく機会になればと考え、このシリーズをUPしています。今回は鯛之浦のいろいろな風景を紹介したいと思います。 ↓ めずらしいと思われる木製の炭函。

映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛之鼻炭鉱の風景②

松浦市福島町原免(はるめん)鯛之浦。・・・現在では民家の1軒もなく、かつて人が暮らしていたということを想像することも難しく、ましてやここに賑わった炭鉱町があった・・・とは到底信じられないような状況になっています。 わずかに残るコンクリートの構造物や、緑に飲み込まれつつある廃屋だけが当時の名残をとどめるものとなってしまっています。 今回は、この場所にあった鉱業所や社宅街の様子などを紹介したいと思います。 「にあんちゃん」では、冒頭お父さんがなくなった葬儀のシーンで炭鉱住宅

映画「にあんちゃん」の中に見る、佐賀県肥前町高串からの鯛之鼻炭鉱の灯

安本 末子さん原作の本「にあんちゃん」を映画化した「にあんちゃん」からのキャプチャーです。 今では無人の野となってしまった長崎県福島・鯛之鼻に存在した鯛之鼻炭鉱の貴重な風景を紹介する意味で、このキャプチャーを掲載しております。 夏祭りに帰ってきた長兄とにあんちゃんが港から沖を望むシーン。 このシーンは現・佐賀県唐津市肥前町田野の高串港で撮影されています。 となると、沖に見える対岸の灯は実際の鯛之鼻炭鉱の灯、ということになります・・ 高串港では、夏祭りのシーンが撮影されてい

ほぼ完璧に現存する炭鉱の島 池島へ行こう!

まず私の結論を述べておきます・・・「池島炭鉱体験」、軍艦島ツアーの10倍いいです!(私は、ですよ) ↓この島、池島ではありません。実は、昭和57年、まだ三菱高島鉱業所が操業を行っている頃の高島なのです。 軍艦島から、ほんの3kmぐらい手前にある、高島。もしこのような状態で今もあるとしたら、あなたは上陸したくないですか?・・・・・ 残念ながら、高島では閉山後、鉱業所はもちろん、島内にあった鉱員アパートもほとんどが解体・撤去されてしまいました。 これが同時期に撮影された、池

軍艦島になり損ねた島 ~ 中ノ島

軍艦島ツアーガイドをしていた時、軍艦島のすぐ横にある島(岩礁)、中ノ島について説明する際、「軍艦島の埋め立て前は、あの中ノ島よりも少し小さな島だった」と言うと、けっこう驚く人がいました・・・ ツアーでは、軍艦島の手前にあるので、中ノ島について説明を始めますが、ゲストの皆さんは、見えてきた軍艦島の姿に釘付けで、おそらく説明も耳に入っていません・・・ 関西や関東など、遠くから来た人も多かったので、それは無理からぬことですが・・・ これは、炭鉱があった頃の中ノ島の姿です。おそ

長崎の世界遺産とは何か・・・

数年前、朝日新聞で特集として掲載されたのが下の写真でした。 長年の農作業によるためか、随分と節くれだち、ごつごつとした「手」が写されていますが、これは長崎出身のアーティスト福山 雅治さんが、自分の祖母の手を生前に撮影したものです。 その写真には次のような文が添えてありました。(一部、違っている場所があるかもしれません) 『 長崎県大村湾沿いののどかな農村。この地で、女性は女手一つで子どもを育てた。 雨の日も風の日もひたすらみかん畑で農作業に励んだ。 楽しみといえば読書くら

軍艦島の名の元になった戦艦土佐は、同島に通った夕顔丸らに曳航され、廃船の旅に向かった

三菱高島炭鉱端島鉱業所は今や通称である「軍艦島」の方がはるかに知名度が高くなっていますが、その名の由来は、島の外観が三菱長崎造船所で建造された「戦艦土佐」に似ていたことだと言います・・・ 外観が軍艦に似ていることは容易に理解できますが、なぜそれが「戦艦土佐」に限定されるのでしょうか・・・ 三菱長崎で建造された戦艦は他にも多くあります。その中で最も有名なのは「バケモノ」と呼ばれた巨大戦艦「武蔵」(全長263m)でしょう。 (画像はシブヤン海で沈没寸前の武蔵) 他にも巨艦は

追悼 今も地の底に眠る想い ~ 日鉄池野鉱 出水事故の手記より

佐世保市柚木地区に向かう旧道沿いに立つ西肥バス「池野」バス停。 この付近にはさして目立つものもなく、静かな住宅街となっていますが、かつてここに日鉄池野炭鉱があり、通りは国鉄柚木線に沿って続く賑やかな商店街がありました。 日鉄池野鉱は8つもの坑口を持ち、本坑の水平坑道(坑道の内、水平に伸びる部分)は幅8m、長さ1kmもあったと言います。 今ではそんなことさえ知る人も少なくなってしまったようです。 今回はいわゆるトピックではありませんが、「追悼の意」を込めまして、昭和15年に

スコップに刻みつけた我が子への思い~中興鉱業江口炭鉱

中興鉱業江口鉱(松浦市調川(つきのかわ)町下免(しもめん)・・・、昭和11年に設立した中島徳松氏・経営の中島鉱業株式会社の名で呼ぶ人も多いかと思います。 中島鉱業の沿革について述べると、やたらと複雑になるので大半は割愛しますが、江口鉱は「中島江口」「大成」「中島志佐」の3鉱を統合したものを「中島江口炭鉱」と称し、鉱業所本部を調川・江口に置きました。 昭和33年1月中興鉱業は中島鉱業時代に欠食児童を出し、学校やPTAにお世話になったとして調川小・中に対し放送機器・ラジオ・スピ

飛島炭鉱へゆく ② (松浦市今福町)

どうしても間近で見たかった、あのボタ山と送炭線の支柱が段々近づいてきました・・・。 支柱は鉄筋の中をコンクリートで埋めてあり、がっちりとした作りとなっています・・・。 支柱は背後の草むらの中へと続いています。この奥に鉱業所があったものと思われます・・ 海岸に突き出た積み出し桟橋です。こちらもだいぶ劣化していますが、ちゃんと形をとどめています。 この先に船が着いていたわけですね。コンクリの上にあったであろう、コンベアは閉山後取り外されたか、穴だけが残っています。 その

飛島炭鉱へゆく ① (松浦市今福町)

「近くて、遠い島」・・・それが飛島(とびしま)炭鉱のあった松浦市今福町、飛島です。 松浦市今福港からはこんなにも近くに見えるのですが、フェリーの便数が少ないため、そうやすやすと行ける場所ではありません。 しかし、だからこそ、行ってみたくなるものです。フェリーは今福港と鷹島の殿ノ浦港を往復する途中で飛島に寄りますが、ダイヤの関係で、今回は鷹島の方から渡ることにします・・・・ (島の最も右側に見えるおにぎりのような山の部分が炭坑時代のボタ山です。) 福島町から見た飛島。左側

海中に沈んだ幻の炭鉱の島 ~ 三菱横島炭鉱

軍艦島に向かうクルーズ船からも見ることができるのですが、長崎市香焼町、香焼炭鉱の中心地であった安保地区から眼前の海を望むと、ちょうど潜水艦が浮上したような、岩礁が見えます。 この岩礁がある場所こそ、三菱横島炭鉱のあった場所です。下の写真は、貴重な操業時代の横島ですが、あまりにも島の姿が違います。 実は、この島、閉山後、海中に消えた「まぼろし」の島なのです・・・ 明治17年の「西彼杵(にしそのぎ)郡村誌」によると、「横島は、東西330m、南北61mで、人家・耕地なし。松樹疎