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少しラクに生きるためのヒント

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2023年7月の記事一覧

ツイートなどSNSなんて、現実世界のほんの一部にすぎないということ

ツイッターも、「X」なんて、物騒な名称になってしまったが、相変わらず、その中で、他人のやることに、「いちいちケチをつけないと気がすまない人」が、暗躍?しているようである。 私は、北大を出た学生が、その後西アジアやモロッコで、ロバと旅をする人のツイートが好きで、よく見ているが、或る人が「生活の為だったら仕方ないけど、この人、趣味でやってんだろ?」みたいな口調で噛みついていた。 そして、あっという間に反論の嵐に巻き込まれていた。 私は、うまいこと言えないが、以下のようにコメン

いじめ、嫌がらせ、ハラスメント、登校拒否、出社拒否、ひきこもり、うつ、戦争を1つの繋がりでまとめる ②

「いじめ」「いやがらせ」「仲間外し」「集団無視」「ハラスメント」が、「~される側」の問題では無く、「~する側」の問題であるのに、「~する側」に対する教育がなされないので、それらの問題が改善されることなく、「~された側」は、下手すると一生涯、そのトラウマを引きずる。 そこで「登校拒否」「出社拒否」「ひきこもり」「うつ」という負の連鎖が始まるケースが少なくない。 繰り返しになるが、「~する側(そのつもりはなくても、結果的にしてしまっている側」を教育するプログラムが組まれない限

いじめ、嫌がらせ、ハラスメント、登校拒否、出社拒否、ひきこもり、うつ、戦争を1つの繋がりでまとめる ①

「いじめる」「いやがらせをする」「仲間外れにする」「馬鹿にする」などは、いずれも「~される側」の問題では無い。「~する側」の問題なのである。 しかし、現実はどうか? 精神的、肉体的苦痛を受けたとして実害が出て、「問題だ!」として動き出すのは、ほとんどが「~される側」からではないだろうか? それもそのはずで、「~する側」の心理状態としては、特に「何も感じていない」か、むしろ「快楽をおぼえる」というものだからである。 だから被害を受けた側の訴えに基づいて、「なぜ、そんなこと

「いつの日か・・」と漠然と思うが

「いつの日か・・・」とよく思う。 やりたいこと。やらなくてはならないと思ってること。 自分の夢、その第一歩。 しかし、「いつの日か・・・」なんて考えていても、そんな日は、永遠に来ないのである。 もし、来るとしてもその時は、今現在よりも、かなり気力・体力は衰えてしまっているのだ。 その分、経験で得た英知、試行錯誤をフル稼働させないと、とても昔には及ばない。 一日でも「若い」ということは、それだけ「可能性」も「気力」も「体力」も明日よりは備えているということなのである。 「

教育を考える ② 「No!は、瞬時に簡潔に伝える」

これは、教師を辞めたずっと後、馬の調教を行っていた時に学んだものである。 馬と言っても、人が触ることもできない「未調教馬」或いは「半野生馬」であった。 当たり前のことだが、馬には「だめ!」なんて言葉は理解できない。 こちらが望む行動をしない時、してほしくない行動をする時は、「体の向き」と「声のトーン」で伝えなければならない。(馬の場合は、人間の皮膚程敏感ではないので、軽く頬を叩くこともある。あくまで懲罰ではなく、知らせることが目的である) それも、やった直後で無ければ意味が

社会の悪と闇に慣れていくことが、「大人になること」ではない。その悪や闇に敢然と立ち向かい、行動できることが「大人になること」なのである

よく「お前も大人になれよ!」とか、「社会に出たら、君もわかるようになるよ!」という言葉を耳にする。 確かに、まだ「子ども」と言われる頃、自分は今よりも純粋で善良な人間であった。 工事現場のおっさんに「煙草を買ってきてくれんか」と言われれば、坂道を下って走って買いに行ったものだ。そのオヤジからは、1円の駄賃ももらっていない。 「仮面ライダーカード」を集めていて、ある店で「仮面ライダースナック」を買った時、商店のオバハンが、「カードは無かよ」と言い放った時も、「それは詐欺だろ

「差別」の上に、「憎悪」が加わると、生命へのリスペクトなど、跡形もなく消し飛ぶという話

人類の歴史上、「およそ人間が成せる事とは思えないような、残虐行為」は、枚挙にいとまが無いほど繰り返されてきた。そして、現在も尚続いている。 「戦争は、人の心の中の差別心から生まれる」と説いてきたが、なぜ人は、身の毛もよだつような残虐行為を平気で出来るようになるのか?は、うまく解釈が出来ずにいた。 しかし、標題のごとく、「差別の上に、憎悪が加わると、生命へのリスペクトなど、跡形もなく消し飛ぶ」のだ。 これからそのロジックを説きたい。 次元はまったく異なるが、同じことだろう

素朴な田舎の「夢みる木」と家庭教育が、ウォルト・ディズニーの源流をつくった

「ロード・オブ・ザ・リング」のJ・R・Rトールキン、「リバー・ランズ・スルー・イット」のノーマン・マクリーン、その他著名な作家の多くが、素朴なカントリー・サイドの豊かな自然の木々や動物たちによって啓示され、その創作活動の源になっているが、ウォルト・ディズニーもまた同じであった。 シカゴに生まれ育ったウォルトだが、父イライアスが、シカゴという治安のよくない大都会での子育てを避け、田舎での子育てを選んだことが、後にウォルトの大きな源流を生むことになる。 ミズーリ州マーセリンの農

教育を考える ① 「必要なことを言う」と「必要ないことを言わない」

百年以上も前から、良識ある学者や有識者が指摘していることだが、日本の「国語教育」は漢字を覚えることに、余りにも膨大な時間を浪費し過ぎている。 児童・生徒にとって、もっと現実的に悩まされるのは、「言葉の使い方」である。 もっと言うと、日々学校生活の中で、「心無い言葉」「余計な言葉」に傷つけられている。 これは実社会の中でも似たようなものだろう。 私の年老いた親は、「どうして、そう余計なことばかりを言うのか!」と思うのだが、私自身もつい、調子に乗った時、「余計なこと」「いう必要