怒りに対しての異議申し立て

現在の文明は、(短期的ではあるが)持続することを念頭に組まれている。つまるところ、死や恐怖などと言った概念から遠ざかろうとする人間の根源的な本能と、秩序や前進を心の底から好む人間の本能が、このよくデザインされた文明のシステムを擁護し続けない訳がない。簡単に言えば、人は文明が大好きだ。現在のこの文明が、この自らの生命の維持という基本概念がら逸脱しているもしくは逸脱の構造を含むようなモノではないと思われる。どれだけこの文明が差別と格差を作り出し、どれだけ奴隷と主人の概念をまき散らし、どれだけ人が生きるという意味が捻じ曲げられようとも、この自らの生命を維持をしたいと言う概念が強く人々に根を張っている時点で、この惨たらしい文明が完全に否定される事はまず無い。だが今までもこの継ぎ足しに継ぎ足しを重ねてきた文明に対して、異議申し立てを起こしてきた人類は居ないわけではない。シュルレアリズムやルネサンスやデカダンスやポスト構造主義の人物たちは、様々な創意工夫を胸に手を変え品を変え趣向を凝らした表現を行ってきた。
 だか(これは私見に過ぎないのだが)彼らが異議申し立てをしたのは所詮現在の文明が作り出す悪しき忘却による持続の性質であり、そしてその裏に仕えている生命の維持という心臓と脳を掛け合わせたような人の急所の箇所でもあった。結果として彼らの異議申し立ては残像として芸術や思想の中である程度花開くことはあったが、資本主義社会の中の文明では根底からこの概念を覆すほどの力がないどころか、涙ぐましいほどの無力であった。
 人を管理する人間の誰もが、生産能力を上げることが個人と社会にとって第一だと断言する。
 人を教育する人間の誰もが、目を瞠る独創的な発想の前には必ず苦しい下積みがあると断言する。
 人を投獄する人間の誰もが、全ての悪人は自由を束縛され更生を待つか絞首台に送るべきだと断言する。
 そして、この欺瞞に満ち幻想を作り出し人々に思考停止の呪いを振りまくこの断言のどれもが、人を暗黒から来る恐怖から遠ざかろうとする本能をくすぐり、既に十分すぎるほど強固でかつ安全に暮せるようになりつつあるこの大地には既に必要のない、権力の元へと集結させるに有り余るほどの力があるのだ。そうでなければこんなにも現代社会に対する問いかけが各方面からなされているのにも関わらず、現実としてそれが問いから来る解答が断行された形跡がないのだ。
 異議申し立てをする対象が間違っているのではない。異議は十分にその内容を深く人々の脳裏に是の文字を刻み込み、そして申し立て人は、既に数多くの人物が現代の著名人として活躍の場と豪華な墓場を得ている。だが、それでも生産力向上を旨とする文明が揺らぐ気配もなく、漫然と進む日常が続いている。

ではどうすればいいのだろうか?私の小さな知見と脳味噌ではこれ以上の答えが出ない。敵があまりにも巨大すぎる上にあまりにも安心・安心を作り出してくれる土台となってしまっている。ここから抜け出すのは尋常ならざる忍術かもしくは仙法が必要だと思えてしまう。

絶望に見舞われ、無気力になる前に彼ら巨人たちの肩に乗ってこの世界をもう一度見まわしたいと願いたいが、この記事では自らの考えを表明するに限ることにする。そしてこの記事以降で、私が怒りをもって言葉を操ることにきっぱりと決別をする。怒りでは現状を打破することはかなわない。何故なら、現状では怒りが次なる抹殺の対象の感情であるからだ。現状維持という制限付きにされてしまった性欲やエロスのような本能の一部の次は、怒りの感情が対象となることはもはや明白であると思われる。怒りは既にコントロールされかかっている。マスメディアにもネットにも、『分かりやすく怒れる対象』が氾濫している。誰もが怒りの感情を抱き、誰もが抗議未満のクレームを喚起させる議論がのぼり、誰もが虐殺器官を活発化させる虐殺の文法が使われている言葉が並んでいる。多分だが、すでに同じような指摘が過去にされているであろうが、私達の怒りの感情はもはや次なる獲物を捕えんばかりに飢えに飢えを、給餌係が故意に餌に毒をまぶしているが故に飢え切っている。この現状を見て思うことは大きく二つのパターンに分かれる。それは、本能レベルの飢えを満たしてくれないこの文明が与えてくれる『分かりやすい餌』に飛びつく人間。それが一つのパターンである。そして、『『分かりやすい餌』に飛びつく人間』を冷笑する人間である。この区分をさらにメタ階層に分ける必要はない。何故なら、飢えのままに『餌=人間』に怒りながら飛びつく人間と、飢えのままに『人間=餌』に笑いながら飛びつく人間の二種類しかいないからだ。この循環から速やかに逃げ出さなければならない。

 怒りそのものが既にガス抜きとしてコントロールされているのは、首をかしげながらではあるが理解して頂けると思う。幼稚で悪質な番組が9割9部9厘を占めるテレビという死にかけのメディアでは、ニュースの、そして世界のニュースの時間と称して、海外の悲惨で不注意から来る交通事故映像を垂れ流す。10トントラックが対向車線の一般車を巻き込んで数十メートルを引きずっては、最終的に奇跡的に怪我人は出ませんでしたとアナウンサーが高らかに宣言する様は、私達に何かしらをもたらさない。映像を見たところで我々が何を知りえたのか、何を感じえるべきなのかをニュース番組は決して説明しない。だが、このインスタントに繰り返される『怒りや不安』が数秒後には『安全や安心』に切り替わり、手軽に得られるカタルシスの生成を見た人間を徐々に骨抜きになっていく。もはやこの数十秒の内に感じてしまう収縮と弛緩のカタルシスを見て、生理的な反応を閉じようとするのは不可能だ。たった数秒にして自らが事故にあったかのような鮮明な映像と共に、神の声を連想させるアナウンサーの発声に、不安の解消からくる快感のメカニズムは抗えない。もはや感情と思考の正しいサイクルは自らの手には無く、外側に存在する幻想の中にある。逃げる術はない。

 そしてもう一つの絶望すべき要素であるが、このインスタントに不安の解消を作り出すサイクルは、人々にメディアに対する釘付け状態にさせるだけではなく、正しい怒りや不安の感情を議論の外側へと押しやる効果も持っている。動物的な視線で世界に起こった悲劇に相対する場合、ただ怒りただ苦しみただ悲しむのだが、インスタントなサイクルに脳味噌まで浸ってしまった人々はこの悲劇の責任者を探し出し磔刑に科そうとする。自分の怒りにはメカニズムがあり、それが即座に解消されることを望む人間は、惨劇に対しての抵抗値が限りなくゼロになっている。すなわち、悲劇・惨劇には
原因があり、それを取り除くことで世界は良くなる、ひいては自分が良くなると錯覚させられている。大抵の場合に、確かに惨劇には原因があるのだが、もしその原因が解消できないもの、つまり自分達が肯定している文明から発生している場合、思考を止め、藁人形を探し出すことに躍起になる。そしてこの段落でもっとも言いたいことは次の帰結なのだが、あまりにもこの藁人形探しに慣れてしまった私達は他人の怒りの感情を見た時、それを我が物として引き受けることが出来なくなっている。藁人形は大抵は惨劇の原因の大部分を担ってはいなく、そして藁人形探しを無意味だと知っている人間にとって、怒りによる他者への問いかけは、必要のない冷静さ、もしくは下劣な冷笑として迎え入れられる。巧みな話術や決定的な証拠でも無ければ、怒りに基づく文明への論証に対して、冷淡になってしまう。何故ならばもしその怒りに乗ってしまえば、自分が安全だと思っている文明を疑うことになるし、そしてすぐさまに解消されないと、苛立たしくそして底抜けの不安になってしまうからだ。感情を感情として抱えることの難しさは、現代においての病気に近い。すぐさまに解決を求めてしまい、もしくは解決できなそうな問題に関しては思考を放棄してしまう。この感情=『感情』のバランスが大きく崩れ、感情=『瞬間的な解消』へと向かうように仕組まれている社会においては、特効薬はない。せいぜいテレビを消して、SNSの急上昇欄を切り、狭い部屋で灯を消して布団にくるまっては「自分は正常だ」と言い聞かせるぐらいなものだ。

もう一度話を戻そう。この袋小路になった文明を怒りの感情を乗せて批判するのは、難しい。三国志のような猛烈な怒りを乗せた檄文が出回った事によって、反董卓連合が結成されるような時代ではない。怒りは陳腐化し、皆口を開け、怒りから与えられる解消という餌を待っている。人々を根底から突き動かす感情として有効だった怒りという本能は骨抜きにされてしまった。怒った人を見た時に感じるあの異常なまでの分断は、すでに様々なメディアで刷り込まれた溝なのだ。誰のせいでもない。持続を第一の旨とするこの文明において、持続しえない怒りの感情は下位の存在と見なされ、そして怒りがかつて持っていた反抗の機能は悪用され続け、共有されない個別のものへと落ちてしまった。

だから私はもう怒らない。怒りを乗せて自らの主張の正当性を証明するのは諦める。これからは、そしてこれからも、怒りの対概念として存在してると思われている、ユーモアの時代だと私は勝手に思っている。
 この世界を笑ってしまおう。自分が行っている事の本当の意味など決して知ることのできないこの世の中に、怒りの感情で答えるのではなく、笑ってしまおう。奴隷にされた自分をも笑ってしまおう。怒りも笑いも持続しない。だが、笑いほどサイクルに組み込みにくいものはない。なぜなら、笑いこそ持続を揺るがされた場所に存在する感情はないからだ。

私はこの文明に反抗する手段として決定的だと思っているのは、笑いと、愛と、そして儀式だと思っている。思っているだけだ。どこにも確証がない。これから探すのもよし。または全てを忘れて笑いに逃げてもよし。愛する人と共にだましだまし自らを殺して生きていくのもよし。パンパンに膨らんだ本能を儀式の供儀として捧げて、古の神秘体験を復活させるのもよし。だが、もう、怒りには組しない。

ここまで書いておいてなんだが、私は小説家を志している。文明が隅に追いやってしまった事を思い出すような作品を今書いている。もし、私が小説家として成功して、そして自分の地位を持続してしまった場合には、皆、私を笑って欲しい。あれだけ大見得を切って自分の生命の維持や持続を呼気下ろしておきながら、一度文明に評価されたならばその場にしがみつき、持続を享受するのかと、大声を上げて笑って欲しい。それだけの矛盾があり、そしてそれは私としての限界でもあると思う。
 人々に極限を見せておいて、作家自身は自らが描いた極限を社会に反映させることは決してできないのだから。私が書こうとしているのは、フィクションであり、そして、極限どうにかして描こうとするフィクションか、もしくは何も示さないアホのようなフィクションなのだから。私を笑ってくれ。

だが一つだけ気になることがある。もし作品が完全な極限を見させるものとして、人々に忘れていたものを何かしら示すのであれば、それは果たしてフィクションと言えるのだろうか?書き表したストーリーが供物として捧げられ、人に言語化不能な感情を再び思い出させるのであれば、これは滅びたはずの供儀を伴う儀式の様式だ。現文明ではなくなってしまったはずの、理性の立ち入る隙間もない、馬鹿げたている様式だ。
 もし作品が儀式であるならば、まだ光明はある。神の存在を否定されてしまった私に、神が不在の神秘体験を垣間見れる瞬間がまだ残されている気がする。どうにかして、一つでも作品を書き上げ、そして怒りを抜いた、笑いと愛が溢れた供物として儀式の中心において捧げなければならない。

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