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ProjectZomboidというゲームが哲学だった話

「ProjectZomboid」との出会い

「汚いシムズ」「あつまれゾンビの森」「殺伐マインクラフト」と評判の「ProjectZomboid」という洋ゲーが、Steamサマーセールで30%OFFになってたので買ってみた。
Twitterのフォロワーさんがやたら推してて、ストアのレビューも高評価が多く、最近興味を持っていた。

ストアページでぱっと見の印象は「とても地味」。最新ゲームのような美麗なグラフィックも、ド派手なアクションもない。
シムズやウルティマオンラインを彷彿とさせる、一昔前のピクセルアートのような、どこか懐かしい見下ろし型のグラフィックにも心惹かれ、軽い気持ちで始めてみた。

とんだ失敗だった。良い意味で。
うっかり足を踏み入れたその世界は、僕が想像していた以上に深くて広い「沼」だった。

命がとてつもなく軽い

巷で「最も難しいゾンビサバイバル」と名高いこのゲーム。
まずチュートリアルから殺意が高い。

このゲームのマスコットキャラ、クソアライグマSpiffoが案内人。プレイヤーを全力で煽りつつ、操作を優しく教えてくれる。
「ネズミの死骸を食べましょう!」
じゃねえんだよ!!
お?ゾンビに噛まれて感染したら解毒薬があるらしいぞ。

案内人の誘導で、割れた窓を通らされてガラスで怪我したり、ショットガンを撃った音でゾンビに気づかれたり、散々な目に遭わされながらチュートリアルは終盤に入る。
解毒剤を用意してくれるとは、いいとこあるじゃんお前。

Qを押したら突如大声で叫ぶプレイヤー。

解毒剤なんて無いってよ!
このクソアライグマ!いつかタヌキ汁にしてやる!!

プレイヤーの大声に呼び寄せられたゾンビが四方八方から大集合。
チュートリアル終わり。

すごい。プレイヤーを生存させようという気が微塵もない。
ちょいちょい差し込まれるブラックジョークに「どうせ死ぬから、残された時間をせいぜい楽しんでね」という開発者の遊び心を感じる。

早速本編を開始。

家から一歩出たらお隣さんで人が死んでる…

ProjectZomboidでプレイヤーは、非力な一般市民としてスタートする。一応看護師とか大工とか退役軍人とか職業は選べるが、基本的には「ついさっきまで平和な日常送ってました」という一市民としてスタート。

使えるものは何でも使う。
食えるものはなんでも食わないといけない。

武器もない。医療用品もない。食料も水もない。着の身着のままで、いきなりゾンビが闊歩する終末世界に放り込まれる。
そしてその場で手に入るのも全てを駆使して生き延びないといけない。引き出しに入ってたフォークや金づちだって立派な武器だ。喉の渇きや飢えを満たすため、水道の水を飲み、民家の冷蔵庫を漁って食料を調達する。

食料は常温だと腐敗する。
新鮮なうちに食べるのが吉。

そうやって武器や消耗品を集めてガチガチに武装しても、戦闘を積み重ねてムキムキの体を手に入れても、死ぬ時はあっさり死ぬ。

ゾンビの群れに食い散らかされるのは日常茶飯事。
転んで擦りむいた傷が悪化して病死する。
水が手に入らず喉の渇きで死ぬ。
拠点の建築中に足を滑らせ2階から転落死する。
手に入れた車を走らせてたら街灯に激突し事故死。
電子レンジに金属容器を入れて発火させ、家が火事になり焼死。
それまで必死で生き延びたプレイヤーが、本当にちょっとした不注意であっけなく死ぬ。人の命の軽さ、儚さを思い知らされる。

初心者は開始してゲーム内時間で1日生きられたら良い方で、運が悪いと数時間、数十分で死んでしまうことも珍しくない。
僕も理不尽な不幸が重なったり、凡ミスで死亡するたびに「はいクソ!!!!二度とやらんわこんなクソゲー!!」と、キーボードを窓から投げ捨てたい衝動にかられた。

ところが数分後にはスン…とマウスを動かし、「新規キャラクターを作成」をクリックしているのである。

自分が死んだ後の世界を歩く

ここからがProjectZomboidの中毒性の高いところで、このゲームには「転生」システムが存在する。

このゲームでは死ぬとリザルトとして生存日数と仕留めたゾンビの数が表示され、ゲームを終了するか、新たにキャラを作成するかの選択を迫られる。
ゲームを終了するとタイトルに戻るが、新規キャラを作成すると、世界はそのままに新たなキャラで続きをプレイできる。つまり転生である。

ただし前の自分とは別人なので、それまで獲得したスキルは全てリセットされ、所持品も無しの1からスタート。
前の自分の死亡地点に走ると、不幸にも死んでしまった自分の遺体か、ゾンビ化して徘徊する自分を発見できる。
前の自分を倒せば、持っていた荷物を回収することもできる。
死んでしまった前の自分に合掌しつつ、いただいた物資をありがたく頂戴し次の自分の生存に役立てる。前の自分が必死で作り上げた、少しだけ安全な拠点も利用できる。それを繰り返すうちに少しずつ物資は充実し拠点の安全は確保され、「前の自分はこうやって死んじゃったな。次はこうしよう」という経験や知識が、確実に転生したキャラに引き継がれて、生き延びるための力になっていく。
死亡を繰り返しながら、気がつくと生存日数が数時間、1日、5日と少しずつ伸びていき、その頃にはずっぷりとこのゲームにハマっているのである。

死が確定しているゲーム

このゲームにはいわゆる「クリア目的」が無い。倒すべき強大なラスボスもいなければ、救助のヘリに乗り込み街から脱出してクリア、といった生存エンドもない。
ゲームの舞台になっているノックス郡は、アメリカ・ケンタッキー州の地方都市という設定だが、プレイヤーはノックス郡から決して脱出することはできない。救助すべき生存者もおらず(これについては今後のアップデートで追加されるかもしれないけど)、ゾンビ以外に人間は自分ひとりしかいない。
つまりどう頑張っても最後にプレイヤーを待っているのは孤独な死で、それが早いか遅いかの違いしかない。死は数日後かもしれないし、上手く立ち回れば数ヶ月、数年後かもしれない。
じゃあ何がプレイ目的なのか?
おそらくゲーム開始時に毎回流れるロード画面に、このゲームの目的と本質が集約されていると思われる。

これはあなたが如何にして死ぬかの物語である

終末の時を迎えた
生き延びる見込みはない
これはあなたが如何にして死ぬかの物語である

既に確定してる死に向かって足掻き続け、1分1秒、1日でも長く生き延びるのがこのゲームの目的である。

プレイするうちに、「あれ?これって人生そのものでは?」という哲学的なメッセージを感じずにはいられなかった。

人間という生物は基本的に暇人なので、「人は何のために生きるのか」をすぐ考えては悩み続ける。その答えを求めて、古今東西、数えきれないほどの哲学者が考え、持論を展開してきたが、今でも答えは出ていない。
答えが出ていないというか、人の数だけ答えがあるから、もしかしたらそのどれもが正解なのかもしれない。
ただ、ProjectZomboidというゲームは、「人は何のために生きるのか」という問いに対して、一つの解答を提示しているように感じた。

もっともこのゲームの開発はファンキーなのでそんな高尚なことは考えておらず「みんな最後はどうせ死ぬんだし、せっかくなら旨いもん食って楽しいことして体に気をつけながら1日でも長く生き延びようぜ」くらいの軽い気持ちでゲームを作ってるのかもしれない。人生なんてそれでいいんじゃないだろうか。

「人生は死ぬまでの暇つぶし」とはよく言ったもんだ。確定している死に向かって、毎日が少しでも楽しくなるよう、昨日より明日が少しでも良くなるよう、今できることをやる。その積み重ねが人生であり、「あなたが如何にして死ぬかの物語」なのだと思う。

今日も僕はちょっとしたミスで命を落とし、新しい自分としてノックス郡に降り立った。今度の物語では如何にして死ぬんだろうか?何が起こるか分からない、このクソッタレな終末世界で、少しワクワクしながら開始ボタンを押す。

ふと漫画「ダイの大冒険」でポップのお母さんが優しく語った台詞が頭をよぎった。

「人間は誰でもいつかは死ぬ」
「だから…みんな一生懸命生きるのよ」

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